2012年度特別礼拝説教1:
復活のイエスに出会う
田園都筑教会・神学生(日本聖書神学校)
中野 通彦
本日は一年に一度の神学校を覚えていただく「神学校日」です。神学校で学ぶものとして、また神学校の職員として皆さまにお支えいただいていることにお礼を申し上げます。私は神学校の2年生であり、未熟なものではございますが、このような小さな器を用いてくださる「神さま」という御方を知っていただく機会になればと願いお話をさせていただきます。
一週間前の10月6日(土)は朝7時から神学校寮の朝の祈祷会に出席して、眠い目をこすりながら司会をつとめました。いつもは静かな土曜日の朝も、この日は少し様子が違いました。神学校と地続きの、目白教会付属の目白平和幼稚園の運動会だったのです。幼稚園のグラウンドがちょうど寮の建物に隣り合っているので、行進曲や園児の歓声が良く聞こえて、運動会の様子が手に取るようにわかるのです。開会式でしょう、園長の古旗誠牧師のお祈りがきこえてきました。「今日の運動会を、最後まで神さまがお守りください。・・イエス様の御名によってお祈りします。アーメン」この「イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン」と言う部分は、子どもたちが一緒に唱えるのです。なんて可愛いいと感じました。そして、運動会をするときに、楽しく過ごせますようにと、祈りをささげる相手が存在するというのはなんと幸いな事だろうと思いました。
皆さまもご存じのように、子ども達をめぐる不幸な事件が連日のように報道されています。この世の中は、子どもたちにとってますます生きづらくなっているのではないでしょうか。この幼い者たちは、この先、多くの災難や挫折に出会うでしょう。こんなときに、思いのたけをそのままに打ち明けることができる、また、それを聞き届けてくれる神様がいてくれることはどんなに慰めになることでしょうか。この幼い子どもたちが、神様へのお祈りを忘れないで成長していくことができるよう願わずにはいられませんでした。
さて、私たちキリスト教徒が神様に賛美をささげ、願いや嘆きを訴えるのは、神様が私たちをこよなく愛してくださっていると信じているからです。これはイエス様が十字架につけられて死んだこと、そして三日目によみがえられたという事実により、示されました。2000年前のこの出来事に遭遇したのは、彼らの師匠がエルサレムにおいて十字架にかけられてしまうという悲劇に直面した弟子たちでした。本日の聖書のテキストは、このイエスの弟子たちのうちの二人が「エマオ」という村に落ち延びていくところから始まるエピソードです。この箇所は、福音書のなかでもルカにだけ見られる、独自の記事です。ルカという福音書記者が、このエマオへの道行きの出来事の中で、私たちに何を伝えようとしたのか、ご一緒に考えてみたいと思います。
1. イエスの弟子
このテキストに出てくる二人の弟子の一人はクレオパという人です。もう一人の弟子の名前は出てはきませんが、この弟子は女性だったとも、あるいはクレオパの伴侶であったとも言われています。
2. 前状況
当時のイスラエルは、ローマによる支配のもと、ユダヤの王や神殿を中心とする宗教体制が神様から心が離れて堕落していました。イスラエルの人々は、このような時にメシアと呼ばれる救い主が与えられて、イスラエルの国をもういちど建てなおされるものと信じていました。そのようなときに現れたのがナザレのイエス様でした。イエス様は権威あるものとして言葉を語り、癒しを行いましたが、それに接した人々はこのイエス様こそがメシアだと信じました。イスラエルの国を建てなおす指導者だと思ったのです。このイエス様が首都エルサレムに入った時、町の人々は皆、ついにこのイスラエルを救うメシアが来られたのだと歓迎しました。
ところがイエス様の述べられた救いと、人々の考えていたイスラエル国家の立て直しが、同じものではありませんでした。弟子たちは繰り返し諭されるのですが、なかなか理解することができません。そんなある日、イエス様は弟子のひとりに裏切られた揚句、あっけなく祭司長たち権力者にとらえられてしまいました。
権力者に勇敢に立ち向かう事を期待していた人々は、捕えられたイエス様にすっかり失望し、彼を十字架にかけるように訴えたのです。それをみていた弟子たちさえもイエス様が捕えられた時に、蜘蛛の子を散らすようににげてしまいましたし、そのあと、イエス様の仲間として捕まることを恐れ、ひとにみつからないように隠れていたのです。そしてイエス様がゴルゴダで十字架につけられ、神から見捨てられるようにして死んでしまった時、弟子達は、絶望しました。彼らがメシアと信じたイエス様が、まるでぼろきれのように死んでしまったこと、そして弟子達自身が、結局彼を見捨ててしまったことを何度も何度も思い返すのでした。
弟子の仲間の一人のクレオパは、仲間一人と、エルサレムから11キロほど離れた村にある実家に落ち延びようと考えました。そのことは彼の良心の呵責を一刻も早く忘れようとした挙句の行為だったかもしれません。クレオパは振り返ることもせず、思いを振り切るように、エマオへの道を急ぐのでした。
3. イエス様との出会い
この逃避行の途上、見知らぬ男が話に割り込んできました。その男は、どうやらエルサレムでのイエス様の事件をまるで知らないのです。不思議に思いながらその男に、一連の出来事を話すのでした。するとその男はため息をついて、旧約聖書があらわしている事柄をひとつひとつ丁寧に語るのでした。すると不思議に弟子たちのこころはなにか、熱いもので満たされていく感じがしました。
弟子たちはエマオの村に近づきましたが、その男は先を急ごうとしていました。もう日暮れ時だったので、クレオパらは家に泊まるように強く勧めました。その勧めにしたがって男は、クレオパの実家に入り、彼の母が用意してくれた食事を前にして賛美と祈りを捧げました。その男がパンを裂いて彼らに手渡した時、彼らはその男がイエス様だということにはじめて気がついたのでした。すぐにイエス様は見えなくなってしまいましたが、クレオパらはすっかり不思議な力に満たされていて、夜が明けないうちから家を出てエルサレムの仲間と落ち合い、復活したイエス様に出会った様子を繰り返し語るのでした。
4. 目の見えない弟子達
さて、このクレオパらの目が開かれたということが表しているのはなんでしょうか。イエス様をみてもわからない、と言う事は、イエス様を理解できない、ということです。弟子たちは、イエス様と行動をともにしていながら、イエス様を理解することはできなかったということではないでしょうか。
イエス様は天にいる神様が、人間を大変愛しておられ、私たちがその神様のほうを向くところから、天国が始まるのだということを伝えようとしていました。しかし、弟子たちは、イエス様が世直しをしてくれる指導者だと理解したのでした。ですから、イエス様が十字架にかけられたとき、弟子たちは絶望しました。
だからこそ、エマオへの道でイエス様と出会い、目を開かれて、十字架に架けられたイエス様がその死を克服された事実を知った時、弟子たちは衝撃を受けました。イエス様の伝えようとしていた福音は、彼らが考えていた目の前にある世の中を改善するというようなことを超えた、人間の根本的な救いの告げ知らせだったからです。人間の側の努力によらない神の救いが、確実におとずれているという福音だということをはっきり知ったのです。
5. 私たちへのメッセージ
クレオパら二人の身の上におこった一連の出来事について述べてきましたが、このことは現代を生きる私たちにどのようなことを意味しているのでしょうか。
私たちが暮らしている社会は、人口減少と高齢社会を迎え、経済は後退し、政治は機能不全をおこし、若者に仕事はなく、お年寄りには暮らしにくい、富める者と貧しいもの、都会と地方の格差が広がった世界、この状況はまさに、クレオパらが生きていた時代のイスラエルの状況に似ています。この国を建てなおしてくれるメシアが現れてほしいと願いたくなるような、先行きのみえない、暗い社会であります。あるいはせめて自分や自分の家族だけでも幸せになろうと、努力するかもしれません。しかし、それでも、私たちが本当に恐れている苦痛や死の問題は、避けられそうにありません。
私たちが直面している大きな問題を抱えた社会、また私たちがそれぞれ持っている、抱えきれないような苦悩やおそれ、これはクレオパたちが持っていたそれでした。本日のテキストは、今を生きる私たちこそが、クレオパら弟子たちのように、イエス様によって目を開かされることによって救いを得られるということをいっています。罪を担って十字架にかかって死なれ、復活したイエス様だけが、苦しみと死を克服されたのです。このイエス様が、今まさに、私たちと共に歩んで下さるという事実によって、私たちが持っている苦しみや死が克服されるといっているのではないでしょうか。
それでは、イエス様と出会うエマオは私たちにとってどこなのか。聖書に書かれている神様が一方的に私たちを愛し、確実に救ってくださる方だ、と繰り返し説明して下さるイエス様に出会うところはどこなのでしょうか。それは皆さまが今おられる、教会です。教会の礼拝で読まれる聖書、そして、説教はイエス様の言葉をあらわしています。イエス様との食事は、私たちの教会の共同体のなかで行われる聖餐、あるいは共同の食事がこれに相当するでしょう。
この教会に働いている聖霊が、私たちの目を開かせて、復活のイエス様をみることができるようになるのです。こうして、復活のイエス様にであったという私たちの確信が、私たちをキリスト教の信仰にしっかりと結びつけていくものとなります。そしてこんどはその出来事を、私たちの仲間ひとりひとりに語って行くものとされていくのです。これが教会の伝道や宣教といわれるものなのです。
6. 結び
ルカ福音書の記者が現代を生きる私たちに伝えたかったことは何だったのでしょうか。私たちはみんなエマオに向かう弟子たちのように、途方にくれ、絶望の闇のなかにたたずんでいます。そんな私たちを神様はどう見ているでしょう。旧新約聖書は3000年以上前から、イエス様の時代までの書物ですが、そこに書かれていることは、神様がいかに人間を愛し、救おうかと奮闘している姿です。神様が作られた人間はあまりにも不完全でしたが、そんな人間を徹底的に愛していこうと決心されました。その姿は今日のテキストの、「エマオへの途上」のイエス様の姿です。
人間は自分たちの努力で救われることはありません。救いは神様が必死になって人間にはたらきかけること、知らない間にイエス様が私達の道連れになっていることに気がつき、私たちが信仰を持つことにより実現するものです。もうすでに私達はイエス様から話かけられております。必ず私たちの目は開かれます。イエス様がパンを裂いてくださるとき、必ずそこにイエス様の姿を見ることができると信じていこうではありませんか。
<2012年10月14日>