2016年5月15日

聖霊降臨日・ペンテコステ主日公同礼拝説教

 「聖霊による交わりの回復」

聖書:新約聖書・使徒言行録2章111

田園都筑教会牧師 相賀 昇

  昨年11月のアドベントから始まった教会の暦もあれからはや半年がたち、私たちは12月のクリスマスを経て3月のイースターへと導かれ、そして、本日は教会の誕生日であるペンテコステをお祝いしております。聖霊降臨の出来事を見ますと、なんといっても言葉の問題と深くかかわっていることがわかります。使徒言行録2章の記事によれば、聖霊が注がれた弟子たちは「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(同2章4節)とあり、それを聞いた人々は皆「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(同2章8節)とあっけにとられています。この現象を「多言語奇跡」と呼ぶ聖書学者もあるようですが、9〜10節を見るだけでも、「パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方など」と、数々の土地の名が挙げられており、そこでいったい何種類の言語が飛び交ったのか分かりません。いずれにしてもそこにはある騒然とした情景が出現したことでありましょう。

 多言語奇跡の原因としての「バベルの塔」の物語
 実はこの世界になぜ多くの民族や言語が存在するようになったのかという原因について、旧約聖書はひとつの物語を用いて説明しております。創世記11章1節から9節に「バベルの塔」の物語がありますが、それによれば当時、まだ人々の使う言葉は一つであったといいます。ある時、人間たちは神に対抗しようという不遜な思いを抱き、神のおられる天に向かって高い塔を築き始めました。そのような巨大建築物を造り出すためには、それに必要な経済力や技術力、また多くの人間の力を結集できるだけの組織や制度の存在が前提となります。こうした人間的能力をすべて結集して、人々は人間以上のもの、神の領域にまで達しようと企てたというのが、この「バベルの塔」の物語です。  

 しばしば指摘されることですが、このような人間的能力の濫用と無制限の高慢さは、むしろ今日においてこそより切実な問題であり、「バベルの塔」の物語は過去のいかなる時代にもまして現代の私たちに向かって警告を発しているといえるかもしれません。ちょっと例を挙げただけでも、巨大なエネルギーを生み出す原子力技術や核兵器、瞬時にして世界の隅々を網羅するコンピューター・ネットワーク、同一の生命の複製さえ可能にする生命科学といった現代の最先端技術があります。倫理的歯止めのきかないまま技術は先へ先へと進んでいき、私たちはその現実をあたふたと後から追っかけていくというのが実態です。古代メソポタミアだけでなく、人間のコントロールの利かない欲望や好奇心を推進力として、人類はなお「高い塔」を建てる営みをあちらこちらで続けているのです。もっとも創世記の物語と私たちが生きている現代の状況との大きな違いとは、少なくともバベルの町の人々は神の存在を意識しており、神へと至ることを目的としていたのに、今日ではもはや人々は神という概念さえ念頭になく、自分たちが達すべき目的さえ知らないまま、ただひたすら「高い塔」を建てるという行為自体に狂奔しているということでありましょう。それはバベルの塔の物語以上に、私たちが混沌とした恐ろしい状況のもとにあることを示してはいないでしょうか。  

 創世記に戻りますと、こうした人間の思い上がりを憤った神は、この塔の建造を阻止するため、それまで一つであった人間の言葉を混乱させたと記されています。こうして聖書は、この世にさまざまな言語が生まれることになったその原因を説明しようといたします。そしてその結果、人間たちの間ではお互いの言葉が理解できなくなり、コミュニケーションがとれなくなって、ついにこの企ては挫折したと記されています。そうしますと多言語が生まれた原因は、人間に対する神様の裁きの結果のような印象を与えますが、ここで本当に見なければならないのは、そもそも神様の領域にまで達しようとする人間の高慢さこそが神と人間の関係を断絶させたのであり、ひいては人間同士のコミュニケーションを破壊し、互いに理解し合えない結果を生み出したという点であります。

 聖霊降臨の出来事で神と人、そして人と人のコミュニケーションが回復
 このようにバベルの塔の物語が神と人間、人と人との二つの交わりの破綻を伝える物語だったとすれば、聖霊降臨の出来事とはそれとは逆に、神と人間のコミュニケーションが回復され、同時に人間と人間のコミュニケーションが回復されていくことを示す物語であるといえるでしょう。神様はこのペンテコステの日に、聖霊によって弟子たちの唇を通して再びご自分の御心を人々に語り伝え、神様と人間との交わりを再建し、また神様のもとにおける人間と人間との交わりを再建するわざに着手されたのです。このような働きはすでに主イエス・キリストによって開始されていたものですが、このペンテコステの日以来、弟子たちがまたそのようなイエス様の働きに参加し、それを引き継ぐことになったのです。高慢のゆえに失われた二つの交わり、すなわち神様と人間のコミュニケーション、そして人間と人間のコミュニケーションが神ご自身のお恵みによってもう一度再建されていきます。私たちが建てようとするものはもはやバベルの塔であってはなりません。人間の技術や能力に依存して神に成り代わること、あるいは無目的、無制限に自分たちの力を振りまわすことが、私たちの目指すものではありません。

 ここで改めてペンテコステにおいて起きた出来事に注目しますと、4節には「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で語りだした。」とあり、さらに6節から8節には「そして、だれもかれも、自分の故郷の一言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」とあります。私たちが注目したいのは、神様と人との交わりの回復、人と人との交わりの回復を実現するために、神様がいろいろな言語、それぞれの人の使う日常的な言葉を用いようとされたという事実です。そしてそれは偶然そうなったということではなく、神ご自身がさまざまな言葉を用いることを「良し」とされたということの結果なのです。神様は唯一の統一的な手段を通してではなく、多様なかたちによって福音がそれぞれの人のもとに届くことをお望みになったのです。このことは私たちが福音宣教ということ、交わりということ、そして教会形成ということを考える上で、とても大切な示唆を含んでいるように思います。

 弟子たちがさまざまな言葉を使うのは、相手に分かる言葉で語りかけようとするからです。一人ひとりの心に届く言葉で語りかけようとするからです。そこでは語り手ではなく聞く人が中心であり、聞く人そのものが大切にされているのです。因みに「すべての人々が自分の言葉で神のことばである聖書を読めるようになることを目指す」をモットーに聖書翻訳プロジェクトを促進している団体に「世界ウィクリフ同盟」があります。2015年発表のデータによれば次のようにありました。「世界の言語数:約7,000言語 。554言語:聖書全巻がある。1333言語:新約聖書はある。1045言語:分冊のみ。2267言語:聖書翻訳プロジェクトが進行中。1778言語:聖書翻訳プロジェクトを始める必要があると思われる」。いまだ3000以上の言語において母国語で聖書を読めずにおり、その人たちに翻訳聖書を届けるため日夜困難な作業が続けられていることを知るとき、あのペンテコステにおきた多言語奇跡はまさに現代の聖書翻訳の業において現れているとも言えるのではないでしょうか。

 聖霊によってこの時代、この地域に福音宣教の使命を担う教会に
 振り返ってみますと、これまでのキリスト教の歴史において福音宣教といえば、聖書ひとつをとってもラテン語訳聖書のみが絶対的権威を持つとされた時代もあり、いろいろな人々を一つの信仰の基準によって統一すること、洗礼を授けて教会に加入させること、さらには自分たちのやり方に固執したまま相手にばかり変わることを求める面がとても強かったように思います。しかし、イエス様のお姿、またペンテコステやその後の弟子たちの姿を見る限りでは、むしろ同じ一人の神様のお恵みがさまざまなかたちで現れ、同じ福音のメッセージがさまざまなかたちで伝えられていったと言えるのではないでしょうか。そしてさらに申せば、そうした福音宣教は、単に言葉を通してだけでなく、癒しを必要とする人には癒しを、食べ物を必要とする人には食べ物を、そして交わりを必要とする人には交わりをというかたちで、具体的に多様なかたちで進められていったのではないでしょうか。聖霊の力はこうしたさまざまな場面において、他者に対するこまやかな配慮と優しさに満ちた働きとしてその姿を現します。私たちの教会もまたペンテコステに誕生した教会と同じ聖霊によってこの時代、この地域に福音宣教の使命を担うべく建てられております。教会暦の後半の半年を常にこうした聖霊の多様な働きを祈り求めながら歩み続けていきたいと思います。