受難節第1聖日公同礼拝説教
「われらを試みにあわせず」
聖書:新約聖書マタイによる福音書4章1〜11 節
田園都筑教会牧師 相賀 昇
受難節・レントの歩みが始まり最初の主の日を迎えましたが、与えられたテキストは「荒れ野の誘惑」の箇所です。イエス様は宣教活動に向かわれる前に荒れ野で四十日四十夜の断食をなさいました。
すると悪魔がイエス様の前に現れまして、三つの誘惑をするのです。
悪魔の三つの誘惑
一つは、「神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらどうか」(同3節)という誘惑です。これに対してイエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(同4節)とお答えになって、誘惑を退けられました。
すると、悪魔はイエス様に一つの幻覚を見せます。聖なる都エルサレムの神殿の屋根の端っこに立たされていました。すると悪魔がこうささやくのです。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」(同4節)。つまり神の子なら天使たちがあなたを受け止めてくれるはずじゃないか、というのです。しかしイエス様は、
「あなたの主なる神である主を試してはならない」というお言葉をもって、この誘惑を退けました。
悪魔は二つの誘惑に失敗してこれで退散するかと思いきや今度はイエス様を高い山の上に連れて行きました。そこはこの世のすべての国々とその繁栄ぶりを余すことなく見渡すことができる場所です。すると悪魔はこう言ったのです。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(同9節)。これは非常に魅力的な誘惑です。「何でもあなたの欲しいものは、わたしが与えよう。それなら、もう神様なんて信じなくてもいいじゃないか」というわけです。イエス様がこれから歩もうとされる道は苦難の道、十字架の道でありました。しかし、悪魔はそんなことをしなくても私を拝みさえすれば、国々も、人々も、すべてをあなたに与えようと言われるわけです。
しかし、ここでもイエス様は悪魔に膝をかがめることを断固として拒絶なさいました。「退け。サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と、悪魔の誘惑をはねのけたのです。ここで「書いてある」というのは、旧約聖書の申命記6章13節にそう書いてあるということです。その前後、申命記6章10-14節を読んでみましょう。「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」。
イスラエルの人々は、神様が自分たちを乳と蜜の流れる地に導いてくださると信じて、エジプトから荒れ野を歩んでまいりました。それはそれで大変な困難の連続なのですが、では神様がそれをくださったら、もう神様を信仰をしなくてもいいかといったら、決してそうではありません。「何かのために」ではなく、神様を信仰すること自体が大事なことなのです。だから、モーセはこういうのです。「あなたがたが大きな美しい町々に住み、財産を持つようになり、ぶどう畑やオリーブ畑から収穫を得るようになり、食べて満腹するようになり、何もかも満ち足りたとしても、あなたの神、主を畏れ、主のみ仕えるということを忘れてはいけません」と。
悪魔の与えるパンなら受け取らない
「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」というのは、何か祝福をいただくための手段ではなく、それ自体が目的なのです。もし、手段であったならば、他の手段があるかもしれません。たとえば悪魔は「もし、わたしを礼拝するならば、これらのものをすべて与えよう」と言っております。それが本当にそうなるのか別にしても、そういう誘惑にひっかかる可能性は十分にありえます。神を礼拝しようが、悪魔を礼拝しようが、要するに目的のものが手に入ればよいと考えてしまうからです。しかし、イエス様にとって、神様を礼拝することは手段ではなく、目的だったのです。それ以外のことは考えられなかったのです。
小川国夫さんという作家がおられました。1927年 静岡の藤枝に生まれ、2008年、静岡市で80歳で召されました。生来病弱で学校に満足に通えず、早くから文学や絵画に親しみ、また週に1度の教会学校でキリスト教に接し、19歳のときにカトリックの洗礼を受けました。小川さんは私たちが今用いている『新共同訳聖書』の編纂実行委員の一人として大きな貢献をなさった方ですが、ある人は「小川さんの日常生活は聖書とともに営まれていた」、また「旅行に出る際には、ペーパーバックの仏語訳聖書を、頁を千切って携行していた」とも証言しています。そのような小川さんがかつて行った12回の連続講演が『イエス・キリストの生涯』(新教出版、2013年)として読めるようになったのですが、その2章「洗礼・荒野の誘惑」のところでこう書いています。「悪魔の声はイエス自身の問いでもあるわけです。…パンなど大したものではないと言っているわけではありません。パンは実に大したものなのです。…知識や肩書よりもパンのほうが根本的なものです。しかし、それでも、悪魔の与えるパンなら受け取らないという決意が必要だと、イエスは言っているのです」。
私たちもこの点をよく気をつけなければと思います。より良き人生とか、平和な生活とか、問題の解決とか、神様への信仰を人生の手段だと考えますと、神様が期待通りに動いてくれないことに失望したり、自分は愛されていないのではないかと疑い惑ったりするようになってしまいます。そして、最後には信仰生活から離れてしまうか、あるいは表向きは信仰生活を続けながらも、それにはまったく喜びが感じられないということになってしまうのです。しかし、そうではなく、神様ご自身を本当に喜ばしい方として信じ、何を得ようと何を得まいと神様ご自身を愛し、神様との交わりを目的とする信仰を持つ人は、どんなことがあってもその喜びを失うことはないのです。
信仰による霊≠フ導きを受ける
招きの言葉でお読みましたが、イエス様は「あなたがたには世で苦難がある」といわれました。同時に「しかし、勇気を出しなさい。」(ヨハネ福音書16:33)とも言われたことを思い起こさなくてなりません。私たち人間には多くの悩み、苦しみ、不安があります。重い病気の人や、仕事に就けず、食べることや住むことに困っている人が多くおられます。自分でもどうして良いか分からないこともたくさんあります。
おまけに、私たち人間は皆、心の中に悪魔のような誘惑の力も働きますから、どのように生きていけば良いか、不安だらけであります。 確かに一人一人は立派な大人ではありますが、悩み多い人生を渡って行くとき、そこではしょせんみんな幼な子同然だと思います。もしカーナビのような人間の魂や心を目的地までしっかり導いてくれるものがあるとすれば、
それは私たちがこうして聖書を読み、信仰による霊≠フ導きを受けることによって、何とか人生という道を歩み続けられているのではないでしょうか。
イエス様は「荒れ野」で霊≠ノ導かれながら悪魔の誘惑を受けられたのでした。考えてみますと、イエス様の荒れ野の誘惑はこのあともずっとあのゲッセマネでも、いやまさに十字架の死に至るまでも続いたと言わなければなりません。私たちにとって荒れ野はこの世の日常世界です。様々な悩みを経験するのはこの世であり、人生の只中です。
しかしよく考えてみると、イエス様が向かわれた荒れ野は同時に断食し静かに祈る場所でもありました。そうしますと、私たちにとって荒れ野は、この世の生活のなかに与えられた教会という場なのかも知れません。マタイはこのあと「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」(14:23)と記します。またルカによる福音書によるとイエス様は荒れ野の誘惑を受けた後、「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。」(ルカ4:14)とあります。その意味で私たちも教会という荒れ野で日曜日毎に祈り、霊の力に満たされてこの世の生活に帰っていくのではないでしょうか。
教会で神様から豊かな霊の力を頂いて、悩み多いこの世でも、その主の霊というナビゲーターに導かれて、確かな歩みをして行きたいと思います。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。」(ガラテヤ5:16) 「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:25)今年の受難節もまた豊かな霊の導きを受けて歩み、信仰的な意味で前進できる時としたいと思います。ただいま受難節を迎えるなかで、来年度の準備を進めております。お互いに十字架の主キリストの教会に相応しい歩みを新たにしてまいりたいと思います。