「復活の信仰に生きる」
聖書:新約聖書・ルカによる福音書24章1〜12 節
田園都筑教会牧師 相賀 昇
今日、私たちは主イエス・キリストのご復活をお祝いするためにこの教会に集められております。世々のキリスト者は2000年以上前から「死人のよみがえり」という、受け取りようによってはありえないと思われるこの出来事を、欠かすことのできない信仰告白の一項目としてはばかることなく告白し続けてまいりました。主のご復活、それは言い換えれば私たちが信仰において「主はいきておられる」と告白することであり、今も復活のキリストとの出会いは続いているのです。復活の主との出会い、そのひとつの出来事が今年のイースター礼拝にも起こっております。それは本日、一人の兄弟がイエス・キリストを救い主と信じる信仰を告白なさり、バプテスマを受けて、私たちの仲間に入られようとしているからです。
ただ今ルカによる福音書24章から最初の復活の物語を読みました。安息日が明けた日曜日の朝早く、まだ暗い中を、婦人たちは香料を持って墓に急ぎました。墓には大きな石のふたがしてあり、番兵もついているはずです。墓に行っても、中に入れるかどうかわかりません。それでも婦人たちは急いだのです。ところが墓に行くと、なんと石のふたは既に開けられてあり、番兵もいず、中には遺体もありませんでした。彼女たちは愛する方を奪われた悲しみの中で、せめて遺体を洗い清めることによって慰めたいと願って墓に来たのでしたが、肝心のその遺体が見当たらないのです。婦人たちは困惑し、途方にくれていました。その婦人たちの前に、「輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」というのです。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(24章5-6節)。「イエスは復活された、ここにはおられない」と二人は婦人たちに告げます。
婦人たちは何のことかわかりません。二人はなお続けます。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(24章6-7節)。
8節には「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」とあり、ここに変化がおこります。空っぽの墓を見て、途方にくれていた婦人たちでしたが、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」というイエス様の言葉を思い出すことを通して、イエス様が復活されたことをいま知るに至ったのです。
「思い出す」―これは大事な言葉ではないでしょうか。聖書の御言葉も講壇から語られる説教も聞くだけでは単なる言葉です。しかし、自分の人生のある時点で、そのきっかけは苦難や挫折、病や事故、また死さえもあるかもしれませんが、神様の御言葉を思い出し、それに聴き従って生きてみようと思った時に、その人なかに神様が生きて働き始めます。イエス様のみ言葉、あの遺言を通してすべてを思い出した婦人たちは、もはや途方にくれてはいません。生き返り、喜びにあふれ、この知らせを弟子たちに知らせるために墓をあとに急ぎました。
確かにルカ24章の婦人たちの置かれた現実は、愛するイエス様が目の前で十字架で無残に殺され、その遺体さえも無くなっている絶望的な状況です。そのような状況の中で神様は「思い出しなさい」と告げられます。そして、この言葉を契機に状況はまったく変わるのです。イエス様の墓の前で戸惑っていた婦人たちは、やがて復活の主イエスにまみえ、悲しみは喜びに変わり、新しい命に生き始めました。
今日の招きの言葉としてローマの信徒への手紙からお読みしました。そこでパウロは復活を洗礼との関連で語っていますが、それは私たちが新しい命に生きるためだと言っています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマの信徒への手紙6章4節)。私たちが今まで生きてきた命とは別の新しい命に生きるようになるために、キリストが「死者の中から復活された」のです。そしてキリストが復活されたから、キリストに結ばれた者が「新しい命に生きる」ことができるようになるのです。パウロは「新しい命に生きる」といっておりますが、イエス様によれば、人間が生きるということは、人と人とが愛し合い、分かち合い、支え合って行く、つまり神様のみ前で人と人との交わりに生きるということです。
そこでは、私の隣人は私の手段ではなく、私が操作したり利用したり、ましてや支配する対象ではありません。そして、このような生き方を根底で支えてくれる方こそ、愛の源であり、命の造り主である神ご自身であるということも、イエス様は教えてくださいました。私はパウロの語る「新しい命に生きる」という表現にこそ復活信仰の本質が言い表されていると思われてなりません。
イエス・キリスト、すなわちこの方こそ神様への愛と隣人への愛を、本当に最初から最後まで生き抜かれ、貫き通された方でありました。その方が甦られた、それこそが私たちの復活信仰の核心であり、それこそが復活信仰の力です。
今年のドイツの教会では 70年前、ナチズムに抵抗して処刑されたディートリッヒ・ボンヘッファーを記念する様々な催しが続いております。1945年4月9日、ボンヘッファーは処刑される前日、つまり4月8日に、同じ獄に繋がれていた人達に頼まれて礼拝をしたそうです。その日は復活祭の次の日曜日にあたっていました。その後で呼び出され、翌日処刑されたのですが、皆と別れるとき「これが最後です。−わたしにとっては生命の始まりです」と言い残したそうです。それはパウロが述べる「新しい命に生きる」という復活信仰の表れではなかったでしょうか。復活の主は世の終わりまで私たちと共にいてくださるのであり、私たちは神様と共に生きるものとされているからです。
使徒パウロは4節に続いて8節で「 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」と述べましたが、イエス様は今もなお、私たちとの愛の交わりを通して共にいてくださいます。神様は私たちと共におられる、それは今日、一人の兄弟が復活の主を告白し、教会に新しい友を与えて下さったことによってあきらかです。十字架で死なれたイエス様は死から復活された、神様がイエス様を復活させて下さった、そして私たちをも復活させて下さる。この信仰がある限り、どのような状況の中でも私たちは立ち上がることが出来ます。イエスは主なりと告白することは、「イエスは今も生きておられる」ことを信じることであり、バプテスマは復活を自分の出来事として体験することです。今日まさにイースターにふさわしい喜びが教会に与えられました。この世界の只中で、人と人とのかかわりの中で、そして私自身の中で、イエス様は共に生きて働いておられます。これこそ最初期のキリスト者が抱いた確信であり、私たちはこのイースターの確信を受け継いでこの地で宣教のわざへ、また奉仕のわざへと送り出されてまいりたいと思います。