2014年復活日・イースター公同礼拝説教

 「主の復活の命に生かされ」 

聖書:ローマの信徒への手紙6章3節〜11節


田園都筑教会牧師 相賀 昇

イースターおめでとうございます。こうして2014年のイースター礼拝をお祝いする機会を与えられましたことを心から感謝を申し上げます。 キリスト教にはイエス・キリストの復活という信仰がございまして、そのことを覚えて今日イースターの礼拝を守っているわけであります。 毎週日曜の礼拝も小さなイースターの礼拝をお祝いしているといっていいかもしれません。 私たちはさきほど、使徒信条によって「主は…3日目に死人のうちより甦り」と信仰の告白をいたしましたが、 この受取りようによってはありえないと思えるような出来事を、世々のキリスト者は信仰告白の欠かすことのできない一項目として、 はばかることなく告白して参りました。

きょうは新約聖書・ローマの信徒への手紙(ロマ書)の6章を読んでいただきましたが、ここで使徒パウロは洗礼ということとの関係で復活について語っています。 6章4節には「わたくしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。 それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。」とあります。 私が生きてきた今までとは別の命をもって生きることができるようになるために、キリストが復活されたというのです。

私たちの教会の教会報は「つづきのいのち」という名前がついていますが、この生命(いのち)という観点からすると、 我々は今日、以前と比べればはるかに長生きできるようになったものの、そのために過去に経験しなかった悩みを経験することになったことも事実です。 医療の進化とともに治療の選択肢が広がる一方で、治療はもういい、おだやかに最期を迎えたいという願いもあります。 国会で尊厳死法案の議論もなされていますが、私たちの時代にあって長生きするだけが幸福とは限らない、人生の最期をどう生きるかが切実な課題となっているのです。 人生の長さではなく、人生の質を問題にせざるをえなくなっているのだと思われてなりません。

フランスにパスカルというキリスト教思想家がいましたが、彼は「人間は死と悲惨を癒すことができないので、 自分を幸福にするためにそれらを考えないようにした」と述べています。パスカルが言おうとしているのは、死とか悲惨とか私たちが抵抗することができない脅威をみないようにして、 その前に戸を立てて私たちが自分自身を守っているということです。ふだんそういうことは意識しなくても、それが私たちの生活なのかもしれません。 これは、パウロによると、生きながら死んでいる姿、ロマ書6章6節にある言葉を用いれば「古い自分」、そして罪の支配、罪の奴隷という状態になるのでありましょう。

ルカによる福音書を開いていただきますと、12章13〜21節にイエス様のたとえ話が出てきます。自分中心に人生設計をして、それを幸せの基準とした愚かな金持ちのたとえであります。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『蔵をこわして、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。 「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこの通りだ。」
アメリカの公民権運動の指導者で、マルチン・ルーサー・キング牧師という方がいらっしゃいました。 この方がこの個所をとりあげて説教をされていて、この男のおろかさを3つの点から語っています。 まず、この男は生きる手段と生きる目的を混同している。人間は食べないと死んでしまうが、食べるだけでは人間らしく生きていることにはならない。 2番目に、自分がほかの人々に依存しているということがわからなかった。私たちは、「私たち」という交わりの中にあってこそ、本当に人間らしくあることができる。 そのことがわからない人生は醜いものになるというのです。最後に、自分が神さまに依存していることがわからなかったことです。 彼自身が神さまのごとく振る舞う傲慢な存在になっている。人間は神さまの被造物にすぎないのに、神さまのみ手の中にあることを見失っていたというのです。 キング牧師は、このような3重の見苦しさをもって、旧約聖書・創世記の5章に出てくる族長メトセラのように長生きをしたとしても、肉体的には死ななくても、霊的には死んでいた、他の人と神に依存していることを認めることができなくなった時に死んでいたのだと、語っています。

このおろかな男は、生きながらにして死んでいたのです。自己中心的な姿勢で、隣人を自分のために利用したり操作したりする時に、我々はすでに死んでいます。 我々を御許へと招いてくださる神さまを見失った時に死んでいるのです。イエス様は、この3重の醜さから私たちを救ってくださるためにこの世に来てくださいました。 人を手段だと思わない、人を操作しない生き方、人と人とが愛し合い、分かち合い、支えあうような生き方、 そのような生き方を根底で支えてくださるのが生命のつくり主である神さまだということを教えてくださいました。

本日のロマ書に、「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」とあります。 ここに復活信仰の新しさが表されています。しかし、パウロはここで、将来起こるべき復活について語ろうとしているのではなく、私たちの現在の生き方を問題にしようとしています。 私たちはまだ復活していないのですが、新しい生き方が現在の歩みの中で実現するために生き始めているのです。罪の支配の中にとどまることなく、新しい命を生きるようになるとパウロは言おうとしているのです。今日の招きの言葉でもお読みしましたが、イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは死んでも生きる。生きていて私を信じるものはだれも決して死ぬことはない」(ヨハネによる福音書11章25・26節)と述べておられます。隣人への愛を貫き通されたその方が、死で終わらずに、甦られたことが復活信仰の核心なのです。

パウロはロマ書6章8節で「わたくしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と語っています。イエス様は愛の交わりを通して私たちと共にいてくださいます。私たちは人と人との関わりの中で生きるものとされています。そこにイエス様が共にいてくださる。これがキリスト者の確信です。

私たちの教会はことし創立10周年を迎えましたが、初代教会の確信を受け継いで歩んでいきたいと思います。

(2014年4月20日)