イースター(復活節第1主日)公同礼拝説教:
死者の中からの復活
田園都筑教会主任牧師 相賀 昇
私たちは今年のイースターの時を迎えました。イエス様は金曜日に十字架の死を遂げ、従って来た人たちは、もう何の望みもないと絶望しました。しかしその主イエスが三日目に甦り、弟子たちの前に現れます。この復活のイエス様との出会いを通して、弟子たちは主イエスを神の子と信じて礼拝するようになります。以来教会は主イエスが復活された日曜日を主の日と呼んで、毎日曜日に礼拝を持つようになりました。こうして私達は一年に一度の大きなイースターを祝い、毎日曜日小さなイースターを祝っているわけであります。
世界を変えた荒唐無稽な出来事
イエス様の復活についてはどの福音書も伝えていますが、同時に復活を信じることがいかに困難であったかについてもまた伝えています。今日はマタイの復活記事を読みましたが、そこには弟子たちのなかには「しかし、疑う者もいた」(マタイ28:17)とあります。復活はその出来事を直接目撃した人でさえ信じることが難しい、ある意味でありえない、荒唐無稽な出来事でした。しかしこの荒唐無稽な出来事が弟子達を変え、世界を変えて行きました。復活の朝、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」(ヨハネ20:19)閉じこもっていました。しかしその弟子たちが、数週間後には、神殿の広場で「2:32
神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」(使徒言行録2:32)と宣教を始め、逮捕や拷問を受けてもその主張を変えませんでした。弟子たちの人生を一変させる何かが起こったのです。
復活という出来事は客観的に証明することはできない問題であります。使徒パウロはローマ書で「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(10:9)と述べています。つまり復活はあくまでも私たちがそれを信じるかどうかにかかっている問題です。しかし復活を信じるかどうかは、私たちが現在をどう生きていくかを決定することもまた事実です。
人が倒した方を神様が起こされた
ドイツにヘルンフート兄弟団という敬度主義の運動があります。今から300年近く前、ゲーテの時代でしたが、N.L. ツィンツェンドルフ(1700-60)という方によってはじまりました。その人たちの墓地ではどの墓もすべて東を向けて作られていました。東というのは、ドイツからするとエルサレムの方角です。つまり、復活を待ち望んでどの墓もすべて東を向いている。そこで、みんながイースターの朝には復活の讃美歌「キリストは死より強い、キリストは悪魔より強い」と歌うそうです。このようなイースターの勝利において、墓によって象徴されているわたしたちの人生を覆う死とさらに罪の力が、決定的に克服されているのを知ることができるのです。
福音書の復活の証言によれば、どれにも共通していることは、そこには空の墓しかなかったという事実でした。それによって聖書は、イエス様の遺体を墓やこの地上に探すのではなく、復活された主イエスを信じるよう促しているのです。今日のテキストでもその空の墓で動転している婦人達に、天使はこう告げます。「あの方は死者の中から復活された」(28:7)。神様がイエス様を死人の中から起こされた、つまり人が倒した方を神様が起こされた、こうマタイは主張しているのです。天使はまた婦人たちに言いました。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』」(同上)。その弟子たちはイエス様を裏切って逃げた弟子たちです。裏切った弟子たちに「イエスはガリラヤで待っておられる」との使信が届きました。弟子たちはそこに赦しの言葉を聞き、彼らは半信半疑でガリラヤに戻り、そこで復活された主イエスと出会います。
ここで特にしなければならないのは、天使が婦人たちに、ガリラヤへ行くように弟子たちに伝えなさいと言っていることです。ガリラヤ、そこはイエス様が弟子たちを召命された場所、差別されて苦しむ人々のために働かれた所、そして彼らを罪人として社会から排除していたファリサイ派の人々や律法学者たちと戦われた場所でした。ガリラヤこそイエス様の働かれた場所、そして主イエスと出会える場所、新しい出発の場所なのです。
神様の懐の中で蘇る死者
昨年「学びと交わりの会」において、山浦 玄嗣(はるつぐ)医師のインタビュー番組「私にとっての3.11―『ようがす 引ぎ受げだ』」を観ました。カトリック信仰者でケセン語訳新約聖書としても著名な方ですが、大船渡市内の病院も津波の被害に遭いました。山浦さんはまず出来事の大きな悲しみを語りました。「今度の災害でたくさんの人が亡くなりました。本当に悲しいことです。私の友人も亡くなりました。それに災害の後にその中を歩くと涙が止まらなくなります」。そして同時にまた神様による大きな慰めも語っておりました。「けれども、その別れの悲しさの中に実は大きな慰めを見出すわけです。それは亡くなった人たちは、それで全部なくなって、消滅したわけでは無いんだ。神様の大きな懐の中に永遠の命の中に蘇ったのだ。もちろん我々は死にます。そして死んだあとイエスが復活されたように復活するであろうと期待しております。そこに大きな慰めと喜びをもっているわけです。」
山浦医師はライフラインが全て止まっている中にも、押し寄せてくる患者たちを診察。彼らに必要な薬を入手・無料配布しながら、自らの心に響くイエス様の語りかけに励まされつつ、何としても生きねばならぬとの闘争心をかき立てられたそうです。そのとき彼を支えていたのは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれ、誰でも、決して死ぬことはない(ヨハネ11:25)とのイエス様の約束でありました。後にこのみ言葉を次のように解釈しています。「このおれには、人を立ち上がらせる力がある。活き活きと人を生かす力がある。このおれの言うことを本気で受け止め、その身も心もゆだねる者は、たとえ死んでも生きるのだ」。
くたばってしまった人間が立ち上がるのも「復活」
山浦さんはこの体験から独自の復活理解を展開しておられます。つまり復活の原語である「アニステーミ」には死んだ人が復活するという意味もあるけれども、ただ横になっているものが立つ、「立ち上がる」ということも「アニステーミ」と理解します。そこから次のメッセージが導かれます。「だから生きているのに死んでいるような、もうくたばってしまったような、もうダメだーと言っている人間がまた元気になって『またやるぞー』と言ってムックリ起き上がる、これも『復活』(名詞型・アナスタシス)なのです。この津波の災害の中で我々は本当に打ちのめされて、生きてるのか、死んでるのか自分もわからないほど心がポッカリ空白になって、何を言っていいのか、何を感じていいのか自分の感覚さえもわからなくなってしまう、そんな虚脱感の中に叩き込まれました。でもまた立ち上がろう、また「アニステーミ」「アナスタシス」、立ち上がろうではないか、そして明るく朗らかに元気に力強く新しい暮らしを始めて行こうではないか」。
あのインタビューは昨年のイースターになされたのでしょうか、最後のほうでこう語っておられたのが印象的でした。「今日復活祭のミサの中で、瓦礫の向こうに青い海が見えて、そして丘の上の教会の庭には桜の花が満開でした。あの桜の花が復活への強い励まし、そのように私は思いました。」
悪をそのまま放置されない神
山浦さんの証言を通して私たちは復活のメッセージの持つ豊かさを示されるのではないでしょうか。キリストの復活を信じる時、人生の意味は変わってきます。キリストは十字架で権力者によって殺されました。しかし、神様はそのイエス様を死人の中から起こされました。私たちはまず復活を通して、神様は悪をそのままには放置されないことを知ります。現実にどのような悪があろうとも、その悪は終わることを信じますから、私たちは悪に屈服しません。どのような困難があっても、神様が共にいて下さるゆえに私たちは絶望しません。神様が必ず道を開いて下さることを信じるからです。私たちが復活を信じるということは、この世界が究極的には神の支配される良き世界であることを信じることです。
その信仰が希望をもたらし、希望は私たちになすべきことへと促します。山浦さんは復活されたイエス様は今こう語っておられるといいます。「おい、元気をだせ、この生き死人め。このおれは死んでもまた立ち上がったのだぞ。そのおれがついているんだ!さあ、涙をふけ。勇気を出して、一緒にまた立ち上がろう。お前のやるべきことが、そら、見えるだろう!」と。私たちがガリラヤへと向かい、復活の主によって立ち上がらされる時、そこに新しい世界が、希望の世界が開けるのです。そして私達はパウロと共に、その希望は失望に終わることはないというあの約束を聞くのであります。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)。
<2012年4月8日>