先週からアドベント・クランツの最初のろうそくに灯が点りました。その一本のろうそくの光を見つめていますと、最初のクリスマスに天使たちが照らした光が想い起こされます。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1,5)。当時も、そして今もそうですが、世界は戦争やテロ・災害や事故・病や死の力に覆われており、わたしたちはそれら闇の力に脅かされています。しかし神様はそのような闇の力に対し、武力や権力や惑わしによってではなく、ひとつの不思議なしるし、すなわち乳飲み子をもって臨んで下さいました。
わたしたちに与えられたそのしるしとはいったい何でしょうか。イエス・キリストである乳飲み子は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ています。しなやかな服にではなく、布にくるまって、ヘロデ王のような大きな家にではなく、粗末な飼い葉桶の中に寝ているのです。乳飲み子は誰に対してもその無防備な姿をさらしています。どんな人でもこの乳飲み子であるキリストに近づくことが出来ます。しかしどんな闇の力もこの不思議なしるしを打ち破ることができません。なぜならそこにキリストにあらわれた神様の愛と平和と自由があるからです。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。それは…恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:14)。神様は、飼い葉桶の乳飲み子に始まり、十字架と復活へと至る御子イエスにおいてご自身をあらわされました。それは神様がこの世を極みまで愛されたがゆえに、ご自身が乳飲み子、すなわち肉となってわたしたちのもとに来られたということにほかなりません。この世界がどんなに争いや不正に満ちていても、あるいは阿鼻叫喚に満ちていても、わたしたちは他のしるしに惑わされることなく、この乳飲み子のしるしから目をそらすことなく、そこにとどまりたいと思います。
「わたしたちは、なおときがある限り、主の到来のために自分たちの心のうちに、また他の人々の心のうちに、主の到来の道備えをするために働こうではないか。わたしたちはなおいっそう熱心に、それに努めようではないか。なぜなら一切はやがてまもなく到来するのだから。しかり、一切は新たになり、悪魔は裁かれ、被造物は慰められ、天と地は新たになるであろう」(ブルームハルト)。
アドベントのこのとき、小さなろうそくに一本ずつ光を点しながら、乳飲み子である神の子をお迎えする備えをいたしましょう。そしてわたしたちの心とその周りの闇が少しでも明るくなるようにお祈りしたいと思います。