◆説教要旨「信仰により守られ」◆


聖書:ペトロの第一の手紙 1, 3−9
 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」。

 今日はイースターを迎えて最初の主の日にあたります。今日のテキストであるペトロの手紙は、教会の伝える受苦日と復活祭の基本的な証言を取り上げています。受苦日と復活祭、あるいは十字架の苦難と復活の栄光は、どちらも別々に理解することはできません。両者とも決して切り離されては、理解することは出来ないのです。宗教改革者ルターによる賛美歌に、讃美歌21の317番(Christ lag in Todesbanden)があります。原詩の歌いだしは「キリストはわれらの罪が与えた死の鎖につながれたが、よみがえり給いてわれらに命をくださった」です。そもそもこれは受難の賛美歌ではなく、復活祭の賛美歌なのですが、ルターは「よみがえり給いてわれらに命をくださった」とあるように、イースターのメッセージをイエスの苦難と死につなげました。今日の聖書は、ルターが歌ったように、最初のキリスト者たちが言い表した、信仰と信頼をわたしたちに呼び起こしてくれます。そして同時にキリスト教の大事なキーワード、つまり希望、信仰、愛が言い表されています。
 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださいました(3)。 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました(4)」。
 この箇所を読みますと、とても格調の高い響きが伝わってきます。それというのも今日のテキストは洗礼式のときに読まれたのではないか、といわれているからです。最初の教会では、イースターの夜に洗礼式がおこなわれました。新しく教会に加えられるひとたちは、イースターの夜があけ、新しい日の光が差してくる夜明けに洗礼を受けました。彼らは洗礼の象徴として白い服をまとったそうですが、そのときこのテキストが読まれ、人々はこう唱えたのであります。「聖なる、高きにいます、哀れみ深い神は十字架につけられたナザレのイエスを、その死の後、神の永遠の命に与らしめた」。
 ここで強調されていることのひとつが、希望ということです。この箇所はあきらめや弱気、悲観主義に対抗して、朗らかというか、快活、楽観的なキリスト教の希望を示しましています。というのは、なによりもイースターは希望の根拠だからです。主イエスはわたしたち人間と苦難においてともにいてくださる方ですが、同時にわたしたちの友として神様の栄光の道を先立って歩まれる方です。
 20世紀を代表する神学者にカール・バルトという人がいます。このひとが最晩年、友人に語った言葉が伝えられています。「神は支配しておられる。だからわたしは恐れない。わたしたちはもっとも暗い一瞬にあるときも確信していようじゃないか。すべての人間と世界の民族にとっての希望を失わないでいよう」。
 希望に続く第二のキーワード、それは信仰です。
 「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています(6)。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです(7)」。
 手紙の筆者ペトロが信仰の関連で強調するのは、試練ということです。わたしたちは確かに「神の力により、信仰によって守られている」のですが、「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません」と語ります。つまり信仰はいつも順調というのではなく、信仰には危機が伴います。なぜなら、信仰とはなにか自分に都合のいいときにもちだしたりひっこめたりできるものではありません。ようするに傍観者でいることができないのであり、つねに渦中にあって信仰を持ちこたえなければならないからです。西洋の剣術であるフェンシングはドイツ語でフェヒテン(=Fechten)といいますが、そこに積極的な働きかけを意味する分離綴りのan(アン)が付きますと、Anfechten(アンフェヒテン)となって、今度は誘惑あるいは試練という意味になります。ちょうどフェンシングで急所を狙い、刺すようなシーンを思い出してほしいのですが、それが誘惑あるいは試練です。先ほど触れたルターは、キリスト者にとってこのような信仰の試練、あるいは霊的な試練はむしろ大切であると考えました。「キリスト者はすべて誘惑と十字架なしには、キリストを正しく学ぶことも認識することも出来ない。誘惑こそ人であり救い主である方を正しく認識することを教える学校である」。つまり、人生のなかで試練にあうことは、それによって神はみ旨(みむね)をあらわされようとしているのだから、試練のない信仰はないというのです。
 希望、信仰に続く三つ目のキーワードはです。こうあります。
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています(8)。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです(9)」。
 愛といいますと、わたしたちは直ちにイエス様が教えられた一番大事な教えを思い起こします。
 「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。
(マタイ22:37-40)
  大事なのは、「神と隣人を愛しなさい」といわれたイエスを愛し、信じることです。わたしたちはイエスご自身を見ることはできません。しかし見たことがなくても愛し、信じるのです。わたしたちはますます見えないものは信じられないという時代に生きています。たとえば心ということひとつとっても、見ることができません。心というわたしたちにとって一番大切でありながら、しかしどうしても見えないものが心であります。最も近い関係にあったはずの、主イエスと弟子たちの関係をみてもそうでした。ですから逆に言えば、見えないものにほど大切なものがある―そういうことにはならないでしょうか。
 今日はイースター後の最初のメッセージとして、信仰と希望と愛という三つのキーワードを聞きました。これらはわたしたちが生きるうえで欠くことのできない要素であります。わたしたちは復活の希望を抱きつつ、主イエス・キリストを愛しながら、試練の中で信仰を貫いて行くのです。この三つが、神様の道の途上を歩く上でいつも一里塚になることを覚えつつ、このイースターのときを過ごしてまいりましょう。
 「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」