2020年10月25日

◇降誕前第9主日/宗教改革記念公同礼拝説教
  聖書:箴言8:22〜32 (旧約聖書1001n)

神を見いだす幸い

田園都筑教会牧師 相賀 昇

  今週から教会の暦は聖霊降臨節から降誕前へと移行して、この時期は旧約聖書が読まれますが、今日は「箴言」(しんげん)をテキストに神様の創造とその知恵がテーマとなります。箴言はいわゆる知恵文学(ちえぶんがく)というジャンルに属します。旧約聖書の正典の中ですと箴言のほかにヨブ記、コヘレトの言葉、詩篇が知恵文学に属しています。その成立の過程はたいへん長く、出エジプトの時代からバビロン捕囚をへて、紀元前4〜5世紀、かれこれ1000年ぐらいのはばがあるとされています。
 箴言の特徴としては、とくに一貫して「主への畏れ」が語られます。たとえば、「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(同1:7)。とか「あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える」(同2:5-6)とあるように、箴言には「知恵を授ける主」がおられることが前提されています。それゆえに人間の経験として語られる知恵もつねに「主を畏れる」方へと向かうことがわかります。ところで「箴言」という語それ自体、一般的にはあまり馴染みのない言葉かもしれません。この「箴」という漢字ですが、これは裁縫の針とか鍼灸治療(しんきゅうちりょう)の鍼(はり)とほとんど同じだといいます。昔は「鍼」(はり)は竹製だったので竹冠(たけかんむり)なわけで。つまり「箴言」とは人生のつぼに鍼のごとく打たれる格言といった理解もできます。

 今日お読みした8章は標題に「知恵の勧め」とありますが、1節で「知恵が呼びかけ/英知が声をあげているではないか。」とはじまります。ここから知恵が人格化されて公然と人々に語られていく様が描かれて行きます。22節にとびますが、そこに「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。」(8:22)とあります。ここで道というのは主の進む道、神が創られた歴史、神の行為と理解してよいと思います。創世記の冒頭の(初めに、神は天地を創造された)」と同じ「初め」です。また「わたしを造られた」はヘブライ語の「カーナー」という動詞ですが、その元来の意味は「なかったものを存在せしむる」ことであり、箴言8章22節の場合も神が知恵を現存へと呼び出したということです。そして知恵は神と共に創造の業に関与したのです。
 22節のあとは、29節までずっと創造の最初から知恵が神とともにあったことが述べられます。そして30節には「御もとにあって、わたしは巧みな者となり」とありますが、「巧みな者」というのは「アーモン」というヘブライ語で技術者、熟練工を意味します。熟練工のようにあるいはアドバイザーのように創造の業に携わられたのです。そしてこう続きます。「御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ。」(8:30-31)。創世記1章の創造物語を見ますと、神様が何かお造りになるたびに「神はこれを見て、良しとされた」という言葉が繰り返されています。箴言のこの箇所は創世記において神が喜んでおられることに対応していると考えられます。創造が完成するや知恵は人と共に喜びを歌ったのです。天地創造のときから知恵は神と人との間に立たれた御方として描かれます。創造の業をなし、人を喜び、人と共に喜ばれる方はそこまでして愛していてくださる方です。従って、32〜33節では先在の知恵である御方に聞き従って「知恵を得よ」と勧められます。こうして、知恵を見出す者がいかに幸いであるかが説かれます。
 もう一度振り返りますと、この段落の初めのところ、22節では主の道(「主は、その道の初め・・・」)が説かれました。そしてこの段落の終わりの勧めのところに来て、今度は「わたしの道」を守れと言われています。実はここまで読んできてひとつ大事なことを申し上げなければなりません。それは、昔からひとつの聖書の読み方、あるいは理解の方法として、ここで言われている「知恵」とはキリストであると解釈されてきました。やや専門的ですが、「知恵先在論」というもので、キリストは地上にお生まれになる前から神のもとに存在し、その先在の知恵であるキリストは創造に関わられた、というものです。神の展開される御業、歴史(特別な言葉で言うなら救済史)、つまり神の御心とその実現される世界、そこに私たちがキリストと共に立つべきことが求められています。こうしてキリストに聞き従い、キリストを見いだす者、キリストと共に喜ぶ人、そういう人々が命を見いし、幸せを見いだすのだといわれているのです。  
 今日の招きの言葉にコリントの信徒への手紙一2章6-7節を読みましたが、そこでパウロはやはり神の知恵を語ります。「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」(6‐7節)。
 パウロの述べる知恵とは何かといいますと、それは「隠されていた、神秘としての神の知恵」とあります。さらに、8節でパウロは「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」と述べています。そうしますと、「隠されていた神秘としての神の知恵」の内容は、キリストの十字架による救いに他ならないことが分かります。すでに1章20節でパウロは世の知恵に対する敵意をあらわにしています。しかしそれはパウロが狭い意味で、たんなる原理主義(=ファンダメンタリズム)で言っているのではないと思います。パウロがあえて「世の知恵」と「十字架の知恵」を対立させているのは、世の知恵がゆきつくところはキリストを理解しない、キリストを十字架に付けるような知恵になってしまうこと、それが問題だといっているわけです。
 今日の箴言8章13節にもこう書かれていました。「主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道/暴言をはく口を、わたしは憎む」(8:13)。この世の知恵の限界は「自分はすべてを知っている」と己を基準として誇り、高ぶるところにあります。この世の知恵から神の知恵への切り替えの一歩は自分にも限りがあることを認めることです。そうしない限り、周りに目を閉ざし、耳を閉ざすことになって、しかもひとはそれになかなか気がつきません。

 吉祥寺教会を長く牧会された方で竹森満佐一という牧師がおられました。東京神学大学の教授も長くなさっており、説教学や礼拝論が専門でした。私が在学中はもう名誉教授になられた時期でしたが、幸い私もギリギリ講義を聴く機会がありました。竹森先生はコリント書の講解説教を残しておられ、ちょうどただいまの箇所、「隠された神秘としての神の知恵」について次のように書いておられました。それは、「私たちが信仰のことをどんなことでも知ることができると思っている、そういうところがあるのではないか」と、批判的に語った後に、神に対してもそうなってはいないか、と次のように続くのです。
 「それは、神に対しても、同じことであります。神についても、どんなことでも知ることができると考え、神に対して畏れを持つということがないのではないかと思います。そのために、神について、何でも知ることの貧しさを知らないのではないかと思います。知ることに満足しているのは、自分を頼みとすることであります。知るべきでないことがあることを知っていないのではないでしょうか。自分は十分に知ることができない。しかし、神がすべてを知っておられる、ということの安心さ、その喜びを知らなくなってしまうのであります。信仰は、自分が知ることではありません。神が、一切を、知っていて下さることであります。人間の知恵には限りがあります。しかし、神の知恵は、永遠であり、絶対であります」。
  「神について、何でも知ることの貧しさ」とありました。とても含蓄のある言葉ではないでしょうか。神様について、自分が何でも知ろうとすればする程、私たちは貧しくなってしまう、お恵みが分からなくなってしまうということになってはいないか、ということでしょう。自分の知識や知恵の範囲の中だけの、まことに貧しい神様しか見出すことができなくなってしまうのです。それに対して、「自分は十分に知ることができない。しかし、神がすべてを知っておられる」ということにこそ、本当の豊かさが、安心が、喜びがあるのです。このことをわきまえ、この豊かさを、安心を、喜びを求めていくことが、人間の知恵とは違う神の知恵をわきまえ、それを求めて生きることなのです。
 もちろん私たちにとってこの世の知恵も大事だと思います。ただそれだけが知恵の全体であると考えてしまうと、世の知恵は歪み、パウロの批判の通りになってくるのではないでしょうか。その意味で世の知恵は、いつも十字架の知恵と拮抗というか、緊張関係にあるべきではないかと思います。あるいはむしろ知恵の基本、ベースにいつも十字架の知恵がなくてはならないと思うのです。先ほど竹森満佐一牧師の言葉を紹介いたしましたが、その竹森牧師が晩年大腸ガンを患われ、ご自分はもはや吉祥寺教会にて説教ができなくなったため副牧師が説教をなさっていたそうです。たぶん神学校で同時期に学んだ吉岡牧師だと思いますが、あるときその副牧師が入院している竹森満佐一先生をお見舞いにいって、「自分のような神学校を出たばかりの者が先生の代わりに説教するなんてことはできない。誰か他の牧師を呼んで説教をしてもらってください」と頼みましたら、竹森牧師は「説教は下手でもいい。ただ十字架だけを語っていればいいんだ」と言って、代わりの教師を頼もうとなさらなかったということです。
 十字架の知恵とは何でしょうか。それはそこに人を生かす十字架の救いがあるということです。それはひとが考え付くものではなく、神様が前もって準備されたものでありました。主イエス・キリストにとって「栄光」とは十字架を避けてはありませんでした。十字架の恥を栄光とすること。このことが私たちに示された「隠されていた神秘としての神の知恵」にほかなりません。今日は宗教改革を記念する日でありますが、改革者マルティン・ルターはプロテスタントの教会と信仰を起こしましたが、そこに「十字架こそが神学である」というひとつの伝統をもたらしました。ルター派のゲオルク・ペールマンという神学者は、「十字架につけられた神」であるキリストこそが「犠牲なるがゆえの勝利者」であって、だからこそ私たち現代人を救済できると語っています。またペールマンはそのような苦難のキリストにおいて神の不可知性をも見ています。パウロは神の知恵は、世の知恵をおろかにするといいました。私たちは宣教をとおして神様のおろかさに仕えるわけです。
  今日の箇所で「信仰に成熟した人たち」とありましたが、これは「完全なものたち」(テレイオイ)という意味で、自分達は信仰の上で完全である、完全な救いに到達したと思い込んでいるひとたちなわけです。しかし私たちは成熟した信仰者であると思い上がることなく、これからも変わることなく、ひたすら十字架のキリストを宣べ伝えていきたいと思います。イエス様はどう祈るべきかという弟子たちの問いに応えて「主の祈り」を教えてくださいましたが、そのときこう述べておられました。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:8)。ということは、見方を変えれば、神様はすべてをご存じで、私たちのために最初に祈ってくださっているということです。自分は十分に知らないけれども、神様が全てを知っておられ、自分の救いのために生きて働いていて下さる、そのお恵みに身を委ねて生きることが救いの道なのです。そこに、人間の知恵とは違う神の知恵をわきまえて生きる、本当に成熟した信仰者としての歩みが与えられるのです。私たちは、神様の奥義を知らされたキリスト者として、神様を畏れるがゆえに十字架の知恵を語る教会として進んでいきたいと思います。

  主なる神さま、あなたは愛する一人御イエスを十字架につけられ、わたしたち全ての罪をおわせになりました。そして御子の蘇りをとおして、わたしたちがひとりも滅びないで永遠の命を受け継ぐことのできる救いの道を開いてくださいました。深く感謝申し上げます。いま私たちのすべての思いを、その大きな犠牲と深い愛とに、主の十字架へと向けさせてください。そしてわたしたちもまた自分の十字架を背負って主イエスに続くように、信仰の生活を整えつつ、いつも謙遜と喜ばしい心を与えてください。敵意と争いの渦巻く世界にあって祈りと信仰とを強め、十字架の知恵と和解の真理をこの地において大胆に伝えて行くことができますよう、導いてください。いまここにともに集えない、心のうちに覚える兄弟姉妹たちがおります。それぞれの場所にあってあなたの大きな恵と祝福がありますようにお祈りいたします。つくしません、この感謝と祈りを主の御名によっておささげいたします。