◇ 降誕節第7主日公同礼拝説教

み言葉にとどまるならば…
(新約聖書ヨハネによる福音書8章31〜36節)

田園都筑教会牧師 相賀 昇

 今朝与えられた御言葉の中に、「真理はあなたたちを自由にする」(32節)という一文があります。これはヨハネ福音書の中でも有名な言葉の一つであろうと思います。しかも教会を越えて有名な言葉であるとも言えるかも知れません。たとえば大学や図書館などで一種の標語のようなものとして掲げられていることがあります。その場合、この言葉は、真理は分野別の学問的真理、あるいは学際的ないし文理融合的分野の学問的真理を突き止めることによって、精神が解放されてより自由になる、という意味で解釈されます。


「真理はあなたたちを自由にする」

  しかし、そもそもヨハネによる福音書が繰り返し使っている「真理」という言葉は、本来のコンテキストから言えば、イエス・キリストその人を指しています。つまり、「真理はあなたたちを自由にする」というのは、「イエス・キリストがあなたたちを自由にする」というメッセージにほかなりません。イエス様はこう言われました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(31〜32節)。私たちが本当に主イエスの弟子になるとき、真理を知るようになるのであって、そしてキリストの弟子として真理を知るようになれば、その真理が私たちを自由にしてくれる。それが本来の意味です。

 先ほど招きの言葉で読みましたが、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と告げられました。あなたたちは真理とは何かと捜し求めているが、このイエス・キリストのもとにこそ真理がある。この人を見よ、この人の言葉のもとに留まれ、そこにこそ真理がある。いやまさにこの方こそ真理そのものだと、聖書は語るのです。従ってそこで示されている真理というのは、何か一般的な法則のようなものではありません。むしろ十字架を通して、神様が私たちに何をしてくださったのか。その出来事にあらわされた真理こそが私たちを自由にする。聖書はそう告げるのです。

 それでは、この「真理」は私たちをいったい何から自由にしてくれるのでしょうか。ここで自由として使われている原語は「エレウセロス」(自由人)という言葉で、「奴隷」(ドゥーロス)に対応する言葉であります。真理を知れば「あなたたちも奴隷ではなく、自由人になる」とイエス様は言われたのです。

 ところが、それを聞いていたユダヤ人たちは反論いたします。「すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」(同33節)。私たちは自由人です。誰の奴隷でもありません。そうです。確かに彼らは社会的には自由人であって、誰かの奴隷ではありません。しかしイエス様はそういうことではなく、あなたたちは本当に自由なのか。あなたたちは罪の奴隷ではないのか、と問われました。それが34節の「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」という言葉です。イエス・キリストにつながらない時まで、私たちは罪の奴隷であった。しかしながら、イエス・キリストを受け入れる時に、そうした罪から解放されるのだというのです。

誰にも言えない心の一遇に神は訪ねてきてくださる

  ここにアブラハムが出てまいりましたが、アブラハムというとすぐに思い起こす方がおります。長年フランスで思索を重ね、すぐれた思想の言葉を残された森有正という方です。1911年のお生まれで、1976年、65歳の時、パリで急逝されました。祖父は明治時代の政治家・教育者である森有礼、父の森明は日本基督教会中渋谷教会の牧師でした。妹は世界平和アピール七人委員会の委員を務めた関屋綾子さんです。森有正氏は晩年、国際基督教大学の客員教授として過ごされ、日本でも多くの講演や説教をなさいましたが、私が学んだ当時の神学校の教授方も、その思索と存在を通してずいぶん影響を受け、支えを得ていたように思います。

 この方が晩年、日本の各地の教会でなさった講演集が4冊出版されており、そのなかに『土の器』と題された一冊があり、そこでアブラハムがせっかく与えられたひとり子のイサクを献げなければならなくなったり、さまざまな悩みを経験したりしたことについてこう語っております。「けれども実はそういう中を通して神さまのアブラハムに対する召しというものはだんだん明らかになってくる。…人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあります。そこでしか、神さまにお目にかかる場所は人間にはない。人間が誰はばからず喋ることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで人間は、誰にも神さまに会うことはできない。人にも言えず、先生にも言えず。自分だけで悩んでいる、恥じている、そこでしか人間は神さまに会うことはできない」。
 これは誰もがよく分かる言葉ではないでしょうか。親にも言えない、先生にも言えない。私たちでいうならば神様にも言えない、そう考えるわけです。そこまでは確かにそうなのですが、しかし森先生は、そこで神様には見ていただいている。神様はまさにそのような心の最も深いところを訪ねてくださると言っておられます。誰にも言えない、隠しておきたい恥ずかしいところがあるわけですが、しかし、そこで神様が会ってくださって、そこで私たちは神様と共に生きる、つまりインマヌエルの神様であることを知るのだというのです。

敵との和解を可能にしたキリストの十字架


  ヨハネに戻りますと、イエス様がここで向き合っておられるユダヤ人たちには、イエス様の行為が、自分たちの伝統から逸脱しているように思えたのでした。彼らは「アブラハムの子孫」であるという自明の論理を盾にするがために、自分たちの考え方を金科玉条のようにすることで、がちがちに身動きが取れなくなってしまっていました。「真理」というのは、本当はそうした状態から自由にしてくれるものなのです。こうして31節でイエス様は「御自分を信じたユダヤ人たちに語られた」わけですが、結果としてはすぐその後で「あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」(37節)と指摘されます。彼らは主イエスの言葉によって自由になるよりも、かえって頑なになってしまったのでした。

 イエス様は十字架につけられた時、自分を殺そうとする人々の赦しを祈られました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。主イエスは十字架の苦しみの中で、復讐を誓われたのではありませんでした。イエス様の苦しみは「今に見ておれ」と恨みを内に持ったものではなかったのです。主イエスは自分を苦しめる者たちの赦しを神様に請われました。ここに人が人を死に至らしめ、その死から報復の罪へとの終わりのない悪循環を打ち切る神のみ業が為され、赦すことにより、敵との和解が可能になったのです。「真理はあなたを自由にする」とは、キリストの十字架という真理が、あなたを罪の縄目から解放して、他者を憎まない、他者の悪を数えないという自由人にすると言うことにほかなりません。すなわち真理とはキリストご自身であり、自由とは「キリストにある自由」なのです。

礼拝は自分の最も深いところで神様に会っていただいている場所
 
 
私たちは毎週教会に来て、礼拝を通してイエス様のお言葉を聞いております。そこで私たちは互いに必ずしも日頃の打ち明け話をしているわけではありませんが、礼拝と言う場所においては、自分の最も深いところ、家族にも、誰にも言えないようなそういう自分の最も深いところで、実は神様に会って頂いているのではないでしょうか。その意味でこの礼拝という場所は、私たちの心の一隅をなお隠し通す場所ではなく、むしろ信頼を込めて神様のまえにそれを開くことが出来る場所です。森有正は先の文章の後、こういう言葉を語っています。「罪を赦すことのできるのは神さまだけで、人間は自分の罪と人の罪を赦す権利はない。人間は自分の罪も人の罪もどうすることもできない。本当に人間の罪を赦すのは神だけである」。インマヌエルの主、共にいてくださる方の訪問を受けいれるとき、人間の罪は克服され、その赦しに生かされ、重荷を下ろし、慰めに与るのです。神様と共に生かされる、その神様とともに生きて行くという道が、ほかでもない主イエスにある自由への道であることを覚えて感謝したいと思います。


 道であり真理であり命であり給う主よ、あなたは今朝、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と語りかけてくださいました。キリストの十字架という真理にとどまるとき、罪の縄目から解放され、他者を憎まない、他者の悪を数えない自由なものとしてくださることを示され感謝いたします。イエスさまが命を持って証した神様の真理をうけいれないような現実、御心を拒むような同じ暗さが、いまもわたしたちをとりかこんでいますが、真理とはキリストご自身であり、自由とは「キリストにある自由」であることを知るものとして、あなたの救いを確信して御名をほめたたえるものとしてください。どうか主の救いに対する決断を確かなものにしながら、主の望みをしっかりと持って仰ぎ見るものとしてください。病の中にある方、悲しみの中にある方、高齢の方、ご家族の介護に労している方などをどうか助け,励ましてくださいますようお願いいたします。インマヌエルの主の御名によってお祈りいたします。  
(2020年2月9日)