◇ 2019年6月9日 ペンテコステ(聖霊降臨日)公同礼拝説教より

聖霊による教会の始まり

田園都筑教会牧師 相賀 昇

新約聖書・使徒言行録2章1〜4節
  「2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

 ペンテコステ(聖霊降臨祭)といえば必ず使徒言行録2章が読まれます。代々の教会はこの不思議な物語を毎年繰り返し朗読しながら聖霊降臨祭を祝ってきました。そこで気づかされるのは、神様が宣教を開始され、継続しておられるのであって、聖書は私たちにまず神様のお働きに思いを向けるように告げていることです。
 2節には「突然」とありました。これは人間が考え、計画し、準備して実現したことではないと理解できます。続いて「激しい風が吹いて来るような音」が聞こえたとありますが、それもそのような音なのであって、私たちが日常に経験する激しい風とは異なるものです。また、それは「天から」聞こえたとありますが、この世界の中からではなくて、向こうから、神様のほうから来ていることを意味しています。また「炎のような舌」が現れたことが記されています。これも明らかに人間の経験の中にある炎でもなければ舌でもありません。
 これらすべての表現は、ペンテコステの出来事が彼方から到来したことを示しています。ここに書かれている激しい風も、炎も、この世界から出たのではなく、神様からのものです。この風は世の思想の風ではなく、この炎は人間によって燃え上がる熱狂や情熱でもありませんでした。それらとは全く関係なく教会は誕生し、教会の働きは開始したのです。

神様は人を用いて救いの御業を

 その意味で、例えば教会には洗礼式があり、また聖餐式があります。水を用意することも、パンとぶどう汁を用意することも人間がすることです。しかし、実際にはそうではないからこそ、2000年間も教会はこれを続けてきたのです。考えてみますとこの礼拝そのものが既に神様の御業なのではないでしょうか。私たちがこうして目に見えない御方に向かい、心を合わせて讃美をしています。毎日なにがしか辛い目に遭ったとしても日曜日にはここに来て神様を誉めたたえています。これらすべてがあのペンテコステの時以来起こっているのですが、しかも、もともと全く違うところにいて、全く違うように生きてきた私たちが、今こうして心を合わせて礼拝を捧げています。そこで私たちは既に天からの出来事に触れているのです。私たちは今日、ここにおいて神様の大きなお働きのただ中にいるのです。
 今年もこの不思議な物語が読み上げられ、私たちはそこからまず神様のお働きに、すなわち宣教は神様が開始され、継続しておられることに気づかされました。しかしそれだけではありません。聖書はそこでひとがどのようにされていったかを告げています。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。このように、この物語は神様の業だけでなく明らかに人間についても語っています。すなわち「聖霊に満たされた」人間についてです。「聖霊に満たされる」という言い方に良く似た表現が聖書には出て来ます。例えば、「怒りに満たされる」、「恐れに満たされる」、「妬みに満たされる」といった否定的なものもあれば、「恵みに満たされる」、「喜びに満たされる」、あるいは「慰めに満たされる」といった肯定的なものもあります。 
  「一同は聖霊に満たされた」とありますように、神様はそこにいた人々を聖霊によって満たしたのです。それは彼らをご自身の働きのために用いるためにです。人々を召し出して、あらゆる国々、あらゆる言語を持つすべての民族に救いを実現するためです。その意味で、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という出来事は、極めて象徴的な出来事だったと言えるでしょう。
 神様はこの世界の救いのために彼らを用いようとしておられたのです。しかしそのあと神様は何か完全に超自然的な仕方で直接救いを実現するようにはなさいませんでした。つまりあくまでも神様は人間を用いて人間を救おうとしておられます。激しい風が吹いて来るような音が天から響いたのは最初だけです。炎のような舌が現れたのも最初のこの時一回限りです。それ以降は、人を聖霊に満たし、人を用いて、人を通して神様は救いの御業を進めてこられたのです。

「聖霊」という人を活かす風

 本日の招きの言葉にヨハネ福音書からお読みしました。主イエスはこう言っておられました。「風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである。」(同3章8節)。時に人生は「風」に譬えられます。人の一生はどこからともなく吹いてきて、どこかへ消え去っていくようなものだ、と言えるかもしれません。詩編にも「瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(詩編90)とあります。人生とは諸行無常、儚いものだと言っているかのようです。どんな喜びも、どんな絶望も、一切は過ぎ去っていく。そのようなその儚さ刹那さに慰めを見出すようなことが時としてあるかもしれません。しかし、主イエスが言われる風とは、そのような人生の儚さのことではなく、「聖霊」という人を活かす風のことです。
 小説に『風立ちぬ』という作品があるのを想い起します。昭和初期に活躍した小説家、堀辰雄の小説です。1923(大正12)年、19歳の時に堀辰雄は結核を発病するのですが、自ら病みつつも、より病状の重かった婚約者に付き添って信州のサナトリウムに入った数ヶ月の経験をふまえて書かれたとされています。死を超えて存在する永遠の生と愛とを謳う、透明で純粋な詩情が高く評価されました。
 そこで印象深いのは、堀辰雄が作品の冒頭にポール・ヴァレリーの詩の一節を掲げていることです。それは「風立ちぬ、いざいきめやも」という短い詩です。作者は病と死を見つめながら、いわば死という運命的な人間の限界と冷静に対決しながら、不意にどこからともなく吹き立った風の気配を感じ、そこに新しい生の衝動を感じていたのだと思います。堀辰雄はこう書いています。「やうやくくれやうとしかけているその地平線から、反対に何者かが生まれて来つつあるかのようだ」と。少し前に宮崎駿監督は「風立ちぬ」いう同じタイトルのアニメ映画を作りましたが、その原作となったのが堀辰雄の小説でした。ただアニメのほうは飛行機技師が主人公となっています。
  「風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである。」(ヨハネ3章8節)。イエス様は聖霊の働きを風に例えておられますが、聖霊は私たちの人生の思いがけないところに吹き、また思いがけないところに私たちを立たせます。それは神様の働きかけであり、先ほど触れた堀辰雄の作品にあるように、「いざいきめやも」という新しい人生を引き起こすものにほかなりません。言い換えれば聖霊とは、私たちが神様の愛の中に生まれ、その愛によって保たれ、その愛に帰していくものであることを示しています。その風に包まれて、思い煩いはすべて主に委ねつつ、御心がなされますようにと祈りつつ、日々を生かされていくところに神の国に生きる姿があるのです。
 
私たちも神様の救いを運ぶ器に

 かつてエルサレムの一角に誕生した教会でしたが、激しい風が吹いて来るような音が天から響いたのは最初だけです。炎のような舌が現れたのも最初のこの時一回限りです。それ以降は、神様は人を聖霊で満たし、人を用いて、人を通して救いの御業を進めてこられたのです。つまり神様は私たちをも聖霊に満たし、私たちを用いて、さらに救いの御業を進めようとしておられるのです。田園都筑教会がここにあるのも神様の救いの御業のためです。そこで大事なのは最初の弟子たちが聖霊に満たされていたということです。私たちはしばしば怒りや恐れや妬みに満たされてしまいますが、それらに支配されて、人生を使われてしまうとすれば悲しいことです。
 あの「風たちぬ、いざいきめやも」という境地とは、聖霊に満たされ、聖霊の支配のもとで生きようという私たちのあり方に重なるように思います。それは単に私たち自身のためではありません。私たちの家族の救い、友人の救い、さらに言えば、この世の救いのためなのです。神様は私たちを用いて人を救おうとしておられます。私たちもまた神様の救いを運ぶ器とならせていただきたいと思います。

 御霊なる御神様、ベンテコステの出来事を通して、あなたが驚くべき形でこの世に教会をたて、福音が伝えられたことを覚え、心から御名を賛美いたします。いつもあなたの霊が弱い私たちの中に宿ってくださり、うちがわから私たちを助けてくださいます。どうかその御霊の働きを妨げることなく、大胆にこの世おいて信仰の歩みと教会の生活を続けてゆくことができますようお導きください。どうか御霊によって私たちの祈りと信仰とを強め、あなたの栄光と御名をこの世にあって大きくし、またこの地において伝えて行くことができますよう、導いてください。いまここにともに集えない、私たちの心のうちに覚える兄弟姉妹たちがおります。それぞれの場所にあってあなたの大きなお恵と祝福がありますように。つくしません、この感謝と祈りを主のみなによっておささげいたします。アーメン。