◇2018年2月18日(日)
受難節第1主日の礼拝説教から
荒れ野の誘惑から宣教へ
田園都筑教会牧師 相賀 昇
受難節最初の主日を迎え、今日はマルコによる福音書からイエス様が荒れ野で悪魔の誘惑を受けられたという短い記事が与えられました。「それから”霊”はイエスを荒れ野に送り出した」(新約聖書マルコによる福音書1章12節)。「霊」という言葉は原語では「プネウマ」ですが、それが特に「聖霊」「神の霊」「主の霊」を指すときには“ ”が付けられています。新共同訳が「送り出した」と訳している個所の、その英語訳を見ると「ドライブ」(drive)という動詞が使われ、神の霊がイエス様を「駆り立てている」という感じが表れています。他方、マタイによる福音書は「“霊”に導かれて」(4章1節)と書いており、ルカによる福音書ではもっと激しく「“霊”によって引き回されて」(4章1節)と記しております。
いずれにしてもイエス様は自ら進んで荒れ野に出向いて、悪魔の試練に遭われたのではありませんでした。要するにイエス様は自分の信仰の力を試すために自ら進んで、荒れ野に出向いて、悪魔に戦いを挑んだのではないのです。試練というのは自から進んで挑むものではないのではないでしょうか。つまり否応なく向こうからやって来るものが試練なのであります。
避けたくても避け得ない試練
かつて「人間が事件を選ぶのではなく、事件が人間を選ぶのだ」という表現を聞いたことがあります。それに倣えば、人間が試練を選ぶのではなく、試練の方が人間を選ぶということになります。次から次と試練が襲いかかって、波乱万丈の人生を送る人にとっては、まさに試練の方がその人を選んでいるのかもしれません。いずれにしても主の祈りに「われらを試みに合わせず、悪より救い出したまえ」とあるように、避けたくても避け得ないものが本来の試練でありましょう。しかし神様はまさにイエス様を強いて「荒れ野」へと追いやって、悪魔の試みに遭わせられたのです。
イエス様の試練は十字架にいたるまで生涯を通じて続き、それは私たちの想像を超えた次元と言わなければなりませんが、それでもその点ですぐ思いあたるのは、私たちは生活の様々な場面で、誘惑に弱いということです。この世界は誘惑に満ちています。誘惑とは様々な形があろうかと思います。食物、着物、お金、名誉もあれば、あまりにも自分に頼ったり、人に頼ったり、 また人を疑い、神様をも疑うような誘いがあります。ひとつにはそのような誘いにもろい私たちのために、主は誘惑に遭われなければなりませんでした。
イエス様がそこにおられるとき、荒れ野は荒れ野でなくなる
私たちにとって「荒れ野」はこの世、日常世界です。様々な悩みを経験するのはこの世であり、人生の只中です。しかし、聖書をよく見ますと、イエス様は「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコによる福音書1章35節)とあります。実は「人里離れた所」と「荒れ野」とはいずれも同じ原語「エレーモス」なのです。さらに8章においても、「人里離れた所」とはイエス様がパンと魚によって群衆を養われた場所でもありました。そうしますと、私たちにとっても「荒れ野」は、この世の生活の場であると同時に教会でもあると考えられます。あるいはイエス様がそこにおられるとき、荒れ野はもはや荒れ野ではなくなっているということかもしれません。
マルコだけでなくどの福音書もそうですが、イエス様は宣教活動を開始するに当たり、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、霊の力を受け、更に、その霊によって荒れ野に導かれて、悪魔の誘惑を受けられたとあります。私たちにとってもまた、洗礼、誘惑、そして宣教というこの順序は大切であります。つまり何かこの世の試練に打ち勝ってから、バプテスマを受ける資格ができたのでなく、まずバプテスマを受けて、神様に信頼し、必ず神様が助けてくださる事を信じますと告白し、洗礼を受けてから、悪魔の試みに遭うのでなければ、私たちは敗北を免れない―そう聖書は教えているのだと思います。
ルカによる福音書によれば、イエス様は「荒れ野の誘惑」の後「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」(4章14節)と書かれています。私たちも毎週日曜日、教会という主のおられる「荒れ野」で祈り、「霊の力に満ちて」家庭に、日々の生活に帰っていくのではないでしょうか。教会で豊かな聖霊の力を神様から頂いて、悩み多いこの世でも、その主の“霊”というナビゲーターに導かれて、確かな歩みをして行きたいものです。
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