◆飼い葉桶(クリッペ)の中は空っぽか?◆
―史的イエスの問題をめぐって―
クリスマスの時期を迎えると教会だけでなく、各家庭にもクリッペ(ドイツ語で飼い葉桶のこと)と呼ばれる降誕にまつわる人形像が飾られる。おむつ姿の乳飲み子イエスの周りに、マリアとヨセフ、野の羊飼いたち、それに牛やロバなどが並ぶ。イヴともなればそのクリッペをながめつつ「きよしこの夜、み子の笑みに」の賛美。すべて情緒ゆたかな、
慣れ親しんだ情景がそこに広がる。
▲田園都筑教会員の青井浩也さんによる力作。情感あふれる陶器によるクリッペ2004。
しかしひょっとしたら人はこう問うかも知れない。それははたして本当なのだろうか、と。ドイツの著名な雑誌に「デア・シュピーゲル」という週間情報誌がある。創立者は1923年生れのジャーナリストで作家のルードルフ・アオクシュタイン。 1947年の創刊以来、編集者である彼と同誌は、戦後半世紀を経てなおドイツの指導的な世論形成の一翼を担い続けている。
実はこの人物が一昨年のクリスマスに、ちょうど聖なる二千年が言われだした時期とも相まって、ちょっとした騒ぎを巻き起こした。具体的には、彼の著書『人の子イエス』(72年の初版の改訂新版)とそれを擁護するシュピーゲルの記事が仕掛けたことである。その記事の見出しは「理解できないイエス」。そこで問題となったのは、彼が単にイエスの生涯から導かれた個々の結果だけでなく、同時に福音書におけるイエス伝承全体を疑問視した点にある。
言わんとするところは、かくも膨大に営まれてきた研究成果をもってしても、福音書のイエスに関する叙述からは何が本当に起こったのかもはや突き止められない。そもそもナザレのイエスなる人物が存在したのかすらも確定できないというのである。アオクシュタインの著書と記事は、それが一応センセーションを狙ったものであるにせよ、相当以前から支持されてきた神学的な研究や教説の一部を踏まえているということは言える。しかし問題なのはそれが極論になってしまっていることにある。
なぜならもし福音書が彼の述べるような観点のみで包括されれば、そこで福音書はもはや歴史的信憑性を持たない作り話となってしまうからだ。そうなれば、それこそあの飼い葉桶は空っぽのままで、賛美の歌声は途絶え、クリスマスのすべての祝祭は消滅することになろう。
四福音書のイエスに関するどの報告においても、それらはキリスト教会がすでに成立した後にはじめて編集されたがゆえに、イエスの生涯の叙述は復活祭後の教会の信仰に強く刻印されている。要するに福音書記者たちは、イエスを神の人及び奇跡行為者として構成しようとした。従って広く流布した判断として、福音書の伝承からはもはや地上のイエスの生涯と教えを逆に推し量ることはできないという結論が導き出される。そのような理解は、今ここで歴史的・批評的聖書学の変遷のすべてに言及しなくとも、碩学ルードルフ・ブルトマンの名前をあげることでひとまず説明がつくであろう。
ブルトマンによれば、信仰にとってはイエスが到来したという「事実」(ドイツ語で"ダス"〔Dass〕)だけで十分とされる。というのは、われわれはただ「宣教の使信」(ケーリュグマ)においてのみイエスと出会うのであるから、イエスの生涯や人格は真のキリスト教信仰には関係がないからだ。こうしてブルトマンは、ケーリュグマの内容としてのキリストと史的イエスとの間の連続性を事実上切断する。それは実に厳密な様式史的方法を徹底させた、学問的・知的にも誠実な帰結であった。それに理性的・自然科学的に啓蒙された私たちの意識と、イエス・キリストの名と結びついた使信の独自性に対する信仰との橋渡しをした意義は確かに大きい。
しかしイエスの「すがたかたち」をもはや問おうとはしないブルトマンのイエス伝承の解釈に対しては、当然ながら批判が起こった。とりわけケーゼマンを筆頭とする彼の弟子たちの間から、50年代から60年代にかけてドイツ語圏を越えていわゆる「非神話化論争」や「史的イエス」への新しい探求が展開されたことは重要である。因みにそこにはブラウン、フックス、ゴルヴィツァー、エーベリンクといったベルリンと関係のある神学者たちを見出すことができて、個人的にも大変興味をそそられる。
それはともかく、どうなのだろうか。いずれにせよブルトマン以後の、とりわけドイツ・プロテスタント側のイエス像を考えるとき、それらはやはり啓蒙主義的・理性的な意識に適合した理解にもとづく試みであることは否めない。もしそうだとすると、またもやあのクリッペにこだわるようだが、飼い葉桶の乳飲み子イエスはいぜんかすんだままで、かろうじて"ダス"(Dass)という小さな文字を通して見えるという事態ではないだろうか。
三年前、私たち家族は旧知のドイツ人夫妻宅に招かれ、クリスマスの半日を過ごす機
会を得た。その時六人で簡単な素材を用い、思い思いに切り貼りして、クリッペもどきの降誕絵図を共同製作したことがあった。そもそもクリッペには何が欠かせないか、なぜ新約聖書にはない牛やロバがクリッペを覗きに登場してくるのか(ヒントはイザヤ1,
3)などとクイズ風に会話しながら、なかなかイメージ溢れるひと時であった。たぶんそこには、稚拙ながらも構成的で具体性を呼び覚ます何か、活き活きとした現実あるいは身体的なものを求める思いが働いたからかもしれない。
「言葉は肉となった」(ヨハネ1・14)をクリスマスの使信として理解するならば、乳飲み子イエスは、確かにあのクリッペの中に私たちと同じ姿を取っているはずである。もちろん「神が人となった」という躓きをもまたはらんだ秘儀のうちにではあるが。
(「ベルリン便りNr.23」『福音と世界』02/2002.掲載)
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