◆境界と相克を越える敬虔◆
―ツィンツェンドルフ伯の生誕三百年を覚えて―
ゲーテの残した自伝的小説『詩と真実』は、世界の自叙伝の最高傑作のひとつと称されるが、そこに興味深い叙述がある。
「同胞教団に接近するようになって以来、キリストの勝利の旗のもとに集ったこの教団に対する愛着は絶えず増大した。(中略)ただ一つの芽が、一人の敬虔な卓越した人物の庇護のもとに根を張り、またしても目に見えない、偶然のように見える端緒に始まって、全世界に広まって行ったのであった」(同著第十五章)。
文豪が述べる「同胞教団」とは、もともとは一四一五年、火刑に処された宗教改革者ヤン・フスの流れを汲むプロテスタントの一派(一四五七年成立)のことである。彼らは反宗教改革ゆえにモラヴィア(ドイツ語ではメーレン、現チェコの中部)から国境を越えてドイツのザクセン地方へと逃れた。信仰亡命者であった彼らをオーバァラウジッツの領地に庇護し、そこに一七二七年「ヘルンフート"Herrnhut"」(主の守りの意)と呼ぶキリスト共同体を設立、ゲーテをして「敬虔な卓越した人物」と言わしめた人こそ、ニコラオス・L・ツィンツェンドルフ伯(Zinzendorf
1700-1760)に他ならない。
▲ N・L・ツィンツェンドルフ伯(1700-1760)
彼は一七〇〇年五月二十六日、ドレースデンに生れ、今年(2000年)は生誕三百年にあたるため、敬虔主義の伝統に育ったこの人の生涯と思想が注目されている。例えば、福音主義アカデミーでは「神秘家、マネージャー、そして教会人としてのツィンツェンドルフ」、またヘルンフートでは大統領のJ・ラォをゲストに「心のキリスト―世のためのキリスト」のもとに協議会がある。聖書の言葉と祈りからなる黙想集『ローズンゲン』(日本では『日々の聖句』)はツィンツェンドルフと切り離せないが、発祥の地ヘルンフートに「ローズンゲンの発展史」を訪ねる企画もある。因みに今年は彼の記念切手も発行され、国民的知名度が窺えよう。
「ヘルンフート兄弟団」は、今や世界各地で七万五千人の会員を擁し、ドイツでは七千二百人の会員と十七の教会を数える。また『ローズンゲン』は教派と国境を越えたキリスト教界の共通の財産であり、その刊行はドイツ語圏で毎年百万部、四十三の言語に及ぶ。
▲ ドイツ語圏で毎年百万部、四十三の言語に訳される「ローズンゲン」
十八世紀初頭のゲーテによる驚きは、まさしく二十世紀のわたしたちのものでもあろう。J・ヴァルマンのような神学者が、ツィンツェンドルフを、全教会史の中で最も独創的な人物のひとり、ルター以降のプロテスタントが産んだ最大の宗教的天才と呼ぶのも頷ける。それでは、彼の独創性ないし先駆性はいったいどこにあって、またそれはどこからきたのだろうか。
先ず当時女性がまだごく僅かしか発言権を持たなかった時代に、ヘルンフートには女性の長老、教師、監督、訓戒者が存在したことがあげられよう。「兄弟団」の名称は確かに男性中心の響きだが、それは信仰亡命者たちの伝統を受けたもので、教会で女性は差別なく職務に就いた。彼の説明では、キリストは花婿で、教会はまさに花嫁なのだから、本来ならばキリスト者たち"Christ-en"
は女性名詞の複数形で"Christ-innen"と呼ぶべきであると言う。しかも彼は三一神の第三の位格を女性と解釈し、実際に霊の女性名詞である"Geist-in"なる言葉を好んで語ったそうだ。卓抜な発想の中に父権的な教会観を克服する視点がないだろうか。
次にツィンツェンドルフはユダヤ人への憎悪を克服することを始めた人であった。彼は「イエスはユダヤ人であった」がゆえに、キリスト者はユダヤ人に「格別な尊敬」を表明すべきであると訴えている。また異邦人伝道に関しては、民族の改宗でなく、キリストに献げる収穫の「初穂」として理解されねばならない。このような観点は、キリスト者とユダヤ人の関係の問題、また世界宣教の理念に繋がる重要な認識と言えよう。
さらに信条の相違についてはどうか。彼の考えでは、神は人間を祝福に導くためにそれぞれの信条を用いるのであって、その相違は神がたんに違った教育形態を取るにすぎない。しかも信条の違いはひとの心までは達しないのである。ここに「心情の宗教」という独特の理解が示される。こうしてひとは互いの信仰告白を同権として認識し、そこに和解された教会の多様性を見るべきなのである。
彼の独創的で先駆的な思想を考えるとき見逃せないのは、それらが教会形成の実践から生じたことだ。彼の目的は「教会内の小教会」という構想から出発して、最終的に、奉仕と伝道に仕えるエキュメニカルな自由教会をルター主義の領邦教会内に確立することにあった。彼はそこに全情熱を注ぎ、兄弟団がイエス・キリストにのみ服従する教会となるべく献身したのである。だが、その道は険しく、教会内部の不一致、周囲の誹謗や中傷、はては国外追放という苦難が襲い、兄弟団がアウクスブルク信仰告白に準ずる教会として承認を得るまで二十年余を要した。そのような苦難にも拘らず、いやむしろ苦難ゆえにと言うべきだろうか、彼は時代のはるか先を進み、性や民族の障壁、人種や世界観の偏見、ついには信条間の相克をも乗り越えて行ったのである。
彼のヴィジョンと目標は、彼の残した二千編を越える賛美歌に響いている。「こころを一つに平和を求め、主を愛する愛、明るく燃やそう。…分かれた民が一つにされる、その日が来るのをわれらは望もう。主の光を受け、その輝きを世界に示そう、主の弟子として」(『讃美歌21』三九三番)。その賛美の祈りが信条の相違をはるかに越えてわたしたちに響くのは、そこにおいてキリスト者の共通の目標であるキリストへの服従が鮮やかに喚起されるからにちがいない。
若き日に国務への道を放棄してモラヴィアの群れのために献身の道を歩みだしたツィンツェンドルフ。その先駆的な生涯は、イエス・キリストを中心とした生き生きとした交わりなしに、活力あるキリスト教もまたないことを現代に証ししてはいないだろうか。
(ベルリン便り5『福音と世界』2000/8)
|