◆ベルナウ通りの「和解のカペレ」◆

 ベルリンというと、すぐに「ベルリンの壁」を思い浮かべるひとが多いかもしれない。歴史上最も醜悪な建造物と称されたあの壁が、冷戦時代、鉄のカーテンとしてベルリンの東西を分断してきた。昨年(1998年)は壁が崩れて十年目。今となってはその痕跡が見られるのは限られた場所だけとなってしまった。そうした中で「ベルナウ通り」沿いには、二年前から恒久的に壁跡を残す「ベルリンのマウアー・ゲデンクシュテッテ壁・記念の地」ができつつある。この場所における第一の要素は、壁の境界線跡の一区画をその装備を含めて保存した「記念碑」で、第二の要素は、壁の歴史に関する「ドキュメント・センター」である。こうしてこのベルナウ通りが、来る二一世紀に向けて、分断都市ベルリンの悲劇を想起させ、また多くの犠牲者たちを覚えるための大切な通りになったわけだ。            
  それにしても、どうしてこのベルナウ通りなのだろうか。先の二つの要素だけを満たす地なら、別の通りでも十分可能だったはずだ。 実を言うと、この通りには数奇とも言える教会の歴史が刻まれている。つまり、そこにもうひとつ第三の要素が加わることで、 この通りは比類なき位置を占めることとなったのである。 それが新たに誕生した「和解のカペレ(チャペル)」に外ならない。 
 それは昨年の十一月九日、壁崩壊十年目の記念日のこと。 その日、ベルナウ通り一帯に「福音主義・フェアゼーヌンクス和解ゲマインデ教区」の鐘が高らかに鳴り響いた。 それは一九六一年の「壁」建設以来、かれこれ四十年近く鳴らなかった、 いや、鳴らすことができなかった鐘なのである。それと言うのも、壁によって同教区は東西に分断され、 教会堂自体も「死の境界線」の直中に取り残されてしまったからだ。 しかもあろうことか、一九八五年の一月、百年前に献堂されたネオ・ゴシック様式の壮麗な教会堂は、突然三日前に保安庁当局から爆破の予告を受け、関係者の為す術もなく灰塵と帰してしまった
(写真参照)。
▲二度の爆破によって崩れ落ちる教会の尖塔

その時、かろうじて三つの鐘だけが救出されて、今日に至っているのである。教会堂爆破というその衝撃的な体験から十五年。しかも壁崩壊十年の記念すべき日に、再建を期してきた新会堂の「棟上げ式」が挙行された。そしてようやくあの三つの鐘が鳴らされたのである。だが、もしひとが、壁の運命をまともに被ったこの教会の歴史を知らず、かつて存在した華麗な教会堂のみを記憶に止めているだけならば、そのひとの目にはこの日の棟上げ式のシーンはいささか奇異なものと写ったに違いない。なぜなら、やがて全貌をあらわすであろう新会堂は、かつてのような伝統的な建築様式に拠った大教会堂ではなく、卵形をした簡素なカペレ(チャペル)〔写真参照〕だからである。
     
 ▲爆破された教会堂の祭壇部分に新しく完成したカペレ(チャペル)

 しかも聞けば、素材は環境を考慮して、土台を除いては木材と粘土による造りだと言う。またそこには高い鐘楼もあるわけでない。三つの鐘は、地面に据えられた台座にまたがる梁に、ひとの高さほどに並んで単純に吊されているに過ぎない。ドイツでは一般的に、過去の記念すべき建造物を可能な限り、いや頑固なまでに徹底的に修復・再現するという伝統がある。ましてやここはドイツの戦後史を反映した特別な地であり、そこに位置する教会ではないか。なぜあの会堂ではなくこのカペレなのか。そんな素朴な疑問を抱いたのは、はたして筆者だけであろうか。
 その問いに答えるために、まずカペレとは何なのかを尋ねる必要がある。「カペレ( Kapelle)」の語源は、後期ラテン語の「カッパ(cappa )」に由来し、「帽子付きのマント」を意味する。四世紀の聖人にマルティンという人物がいるが、彼にまつわる故事とそのひご庇護の精神はあまりにも有名だ。ある日、彼は全裸の男に自分のマントを半分切って与え、夢の中でキリストから「その男こそ私だ」と告げられる。彼を記念する十一月十一日には学校や地域などいたるところで、子供たちが「ザンクト・マールティン…」などと歌いながら提燈行列や小劇が演じられる。実はこの聖マルティンのマントが仏王国宮廷内に保存され、その場所がカペレと呼ばれたのだ。 
 そうした謂われゆえに、古来カペレは―それが聖人に関するにせよ、特別な出来事に関するにせよ―キリスト教文化の中で、特別で霊的な思いと結び付く場所となった。従ってカペレは、商売や往来の中心地である広場にあることはまれである。それはまた、司教座のシンボルとしての大聖堂やドームとは違った形態、敬虔さや信仰の表現を持っている。チャペルが学校や病院などの施設にあることを考えても分かるように、カペレはある特定の場所の中に、その目的に応じて存在している。カペレの空間が醸し出すのは、いわばより親密で、より個人的で、より繊細とも言うべき敬虔さや信仰心なのだ。   
 ベルナウ通りに誕生した「和解のカペレ」は、「ベルリンの壁・記念の地」という特別な場所と目的とに結び付く。そして「東西の縫い目」としての現実を負いつつ、主の和解の御業を告げ知らせる。そのカペレは、旧会堂とは全く違った形を得たが、それはかつて聖マルティンが裸の男に切り与えたマントように、旧会堂の祭壇だった部分をちょうど身を屈めるかのように覆っている。それはーかつてベルナウ通りを支配してきたようにーなお冷たきこの世にあって、家無き人々を保護し暖かさで覆うマントであれ、という意味にも受け取れようか。和解教会の人達はベルナウ通りで、諸々の人間中心の計画がラディカルに崩れ去って行くのを見てきただろう。彼等はその末にこのカペレを選んだ。あるいはそう示されたと言うべきか。いずれにせよ、それは壁崩壊以後の霊性と神学を反映したひとつの教会のかたちなのかもしれない。
(ベルリン便り1『福音と世界』2000/4)