園都筑教会は2011年10月1日(土)、同教会で、「宗教改革と私たちの信仰」をテーマに、ことしの一日修養会を行いました。参加者は25人でした。
開会礼拝で相賀牧師は、「ルターはパウロを理解しようとし、『十字架だけが我々の神学だ』という結論にたどり着いた」と述べ、「プロテスタントの信仰は一人ひとりの信仰の主体性を明確にしてきたが、これが行き過ぎると個人主義になりかねない。私たちは自己を圧倒する神さまの恵みに生かされるという信仰の証し人として一致を求めつつ歩んでいきたい」と話されました。
続く講解で、相賀昇牧師は、大聖堂の増改築費用を捻出するために「贖宥券」という一種の免罪符を販売するなどの当時の信仰のあり方に疑問を持ったルターが、95条の公開質問状を出すにいたった経緯とその後の展開について午前と午後の2回に分けて詳しく説明されました。以下はそのあらましです。

マルティーン・ルターは1483年に事業家の父のもとに生まれ、ドイツ最古の大学の一つであるエアフルト大学で哲学を学び、今でいう修士課程を優秀な成績で終了しました。その半年後、落雷に遭ったのがきっかけで、修道士になることを決意します。そして、1505年、戒律が厳しいことで知られるエアフルトのアウグスティヌス派修道院に入りました。
死の恐れ、神の怒りからの解放を求めて修道院に入ったルターでしたが、敬虔な修道士としてのいかなる行いも彼の苦悩を消し去ることができませんでした。それは、当時の教会の考え方が、聖職者が徳を教会に積めば、そこから告解などのサクラメント(秘跡)を通して、救いが信徒に分与されるというものだったからです。
ルターは苦悩からの救いを得られないまま、1507年司祭に叙階され、1512年神学博士となり、ヴィッテンベルグ大学の聖書学教授に就任、同時に領邦君主であるザクセン選帝侯の城教会の説教者となります。ルターが、神の義が人の行いによるのではなく、一方的に与えられるものだという福音理解に至ったのは、1517年10月31日、95カ条のテーゼ(提題)をウィッテンベルグの城教会の扉に貼り付けた前後のことだったようです。
贖宥符と呼ばれる一種の免罪符を教会が発行することなどを批判したテーゼが発表されるや、その内容は、2週間でドイツ国内全体に、そして約4週間のうちに全ヨーロッパに広まりました。これを伝え聞いた当時の教皇レオ10世は「これはドイツ人特有のビールの飲み過ぎのせいだろう」と評したそうです。しかし、支持者はどんどん増えていきました。
ルターの改革は、聖職者と信徒の間には職務上の区別以外は何も違いはないことや聖餐と洗礼のみが秘跡であることを明確にし、誰にでもわかる言葉による説教を中心にした礼拝を行うなど従来の保守的な典礼様式の近代化に道を開きました。
以上の説明を終えた後、相賀牧師が「ルター本人が言っているように、ルターの改革は教会改革の序曲であった」として、「日本キリスト教団内で聖餐式の執行をめぐる議論や対立がある中で、教会は正しい福音理解に立って常に改革を続けていく必要がある」と強調されていたのが印象的でした。
また、この日の修養会では、昼食後に、本多峰子牧師が、宗教改革およびルネサンスが、詩や絵画や彫刻などの芸術分野、さらに建築にどのような影響を与えたかをルネサンス期の前と後の数多くの作品や教会建築などの写真を用いて丁寧に解説してくださいました。
=田園都筑教会会報「つづきのいのち」2011年10月30日号から転載 <おわり>